第47話

あの、真っ白なユリの花束を見るのがちょっと怖かった僕は、例の交差点の横断歩道の手前でやっているいつものルーティンをすっぽ抜かした。


 どんなに控えめに言っても、罪悪感が半端ない。姉がいてくれてた頃は、どんな些細な出来事であってもそれを報告するのは僕だったし、おはようやお休みのあいさつだって欠かした事はなかったのに。


『あれ? そんなに急いでどうしたの? お姉ちゃんとちょっとお話ができないくらい、忙しい訳? へ~、そうなんだ~……』


 ハムスターのように頬をぷっくりと膨らませて、拗ねたような事を言ってくる姉が容易に想像できる。姉は拗ねて機嫌を悪くすると、それが収まるまでかなりの時間を要した。おまけに全く誰とも口をきいてくれなくなるので、そんな姉を見かけるたびに僕は彼女を宥めようと、いつも一生懸命になっていた。


 その頃の事を思い出しながら、僕は心の中で姉に「ごめん」と謝った。


 今日だけだから。今日はどうしても、話さなきゃいけない奴がいるから。


 幸いにも信号機はすぐに青へと変わった。いつもよりずっと早い時間のせいか交通量も少なく、僕はスムーズに横断歩道を渡り切り、そのまま自転車のスピードに任せて高校へと向かった。







 当然と言えば当然なんだろうが、まだ七時を少し過ぎた程度ではあの人がまだ出勤などしているはずがなく、高校の正門はしっかりと大きな南京錠と少し錆び付いた鎖に守られていた。


 ここで無理に校門をよじ登る必要もなければ、あの人が来るまでここでのんびりコンビニで買ったおにぎりを食べている必要はない。学級委員をしているあいつなら、絶対誰よりも早く来るはずなんだから。


 そんな僕の読みは、ぴたりと当たった。僕が校門の前に着いてから、たった五分であいつ――木下唯がかわいらしいピンク色の自転車に乗って現れた。


「あ……」


 木下は校門に自転車を立てかけて待っていた僕の姿を見つけると、キキィッと少し甲高いブレーキ音と共に数メートル手前で停まった。あれはつい二日前の事だから、お互いに戸惑いがある方が当たり前だ。同じ条件なのに、それでもどちらからともなしに話を始める青春ドラマのキャラクター達って、本当にすげえと思った。


「お、おはよう……」


 ほんの数十秒の沈黙に耐えきれず、先にあいさつをしてきたのはやっぱり木下だった。僕もすぐに返したかったけど、まだ何か言いたげに口元をもごもごと動かしている木下を、何故かこの時、「これ以上、木下のあんな顔を誰にも見せたくない」と思ってしまった。


「あ、あの、昨日の事なんだけど」

「場所、変えよう」


 少し食い気味に、僕は言った。


「こんな所で話せる内容じゃないじゃないしな」

「うん、分かった」

「あの人ももうすぐ来るだろうし」

「あの人って……もしかして、用務員の?」

「ああ」


 僕はこくんと頷いた後、自転車と同じように自分の体を校門の分厚い門扉に預けてから、あの人が来るのを数分待った。

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