第46話

翌日、月曜日。僕はいつもよりずっと早い時間に起き出して、そのまま学校へ行く準備を始めた。


 朝食はいらないと言うと、母はやたら驚いた顔をしてみせた。部活に入っていなければ、美化委員なんてさほど大きな仕事がある訳でもないものに所属しているような僕が、こんな朝早くに家を出る理由など、全く見当が付かなかったんだろう。


 じゃあ、行ってきますと玄関先で靴を履き始めた僕の背中に向かって、母が待ってと小走りで駆け寄ってくる。急いで仕上げてくれたのだろう、その手には少しシワが寄ったハンカチに包まれた弁当箱が提げられていた。


「これ、お昼のお弁当。ちょっと不格好になったかもしれないけど、お姉ちゃんの大好きなコロッケ入れてあるから」


 まただ、また僕の中に姉を見ている。母が僕の名前を呼んでくれなくなって、どれくらい過ぎた事だろう。


 中学生の時、一度だけだが、そんな状態の母がものすごく煩わしくなって、差し出されてきた弁当箱を思いきり強く床に叩き付けてしまった事がある。それと同時に「姉さんはこの世でたった一人だろ、何でそれを母さんが分かんなくなっちゃうんだよ!?」と癇癪かんしゃくまで起こした。そしたら今度は母の錯乱が始まり、心療内科のある病院に一週間以上も入院するという結果に終わった。


 その時の母の、つらそうな泣き顔は今でも忘れられない。ひどい事を言ってしまった自覚はもちろんあったので、入院中は毎日見舞いに来ていたのだが、病室のドアを開ければ母はいつでも泣いていて「お姉ちゃん、お姉ちゃん……」と何度も姉を呼んでいて、とてもそこから中へと入る勇気が出なかった。


 父からしっかりと釘を刺された事もあるが、もう二度とあんな母の姿を見たくないと思ってしまった僕は、母の言動をたしなめるような事をするものかと心に決めた。僕に17歳という「灰色の世界」があるように、今の母にも彼女なりに築き上げた「何色かの世界」があるんだ。それを邪魔する事だけは、と今日も覚悟しながら、僕は母の手にある弁当箱を受け取った。


「ありがとう。早弁しちゃうかもね」

「こら、それはダメよ」

「冗談だよ。朝メシはコンビニで済ませるから大丈夫」

「お小遣いで足りる?」

「ノープロブレム」


 ちょっとふざけた口調でそう言うと、母はくすっと鼻から抜けるような笑い声を立てる。それより一瞬遅れて、父がトイレから出てきたような物音がした。


「ほら、早く父さんのメシ用意してやって」

「え、ええ。でも、本当にどうしてこんなに早く行くの?」


 今度は心底心配そうに、そう尋ねてくる。一瞬、ほんの一瞬だけ、その言葉が僕に向けられたものだと信じていたかった。


「うん。ちょっと、会いたい奴がいてね」


 もう一度、行ってきますと言った後で、僕は足早に家を出て、自転車のサドルに跨った。

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