第44話

フレンチトーストをすっかり平らげてしまうと、僕は急いで身支度を整えた。だが、僕が鏡の前で髪を梳いている間に、昨日の赤いジャケットを羽織った美喜さんが玄関の方に出ていて「お邪魔しました」と両親にあいさつしている声が聞こえてきた。


 慌てて玄関先に出てみると、美喜さんはこっちに背中を向けて靴を履いているところだった。僕が「美喜さん!」と叫ぶように声を出すと、彼女は肩ごしに振り返って薄く笑った。


「お邪魔様、また来るね」

「またって……もう行っちゃうの?」

「ううん、今日は実家に行くわ。父親がなんだかんだとうるさくてね。それから帰るつもり」

「帰るって、どこに?」

「勤め先に近い、私のマンション」

「だから、どこ?」

「絶対、秘密」


 どうやら美喜さんは、僕の両親にホステスをしているという事を話していないらしい。だが、昨夜の話を聞いてしまった僕としては、美喜さんの金髪や赤いジャケットの理由を知っている事にもなるのだから、どこか知らない所に帰ろうとする彼女の事が心配でたまらなくなった。


「だが、せめてお父さんにはきちんと教えておいた方がいい」


 僕が言おうとした事を、父が先に言ってくれた。


「同じ立場だった者から言わせてもらえば、娘の行く末が気にならない父親なんていないんだからね」

「……」

「瀬川君も立派になってた。美喜さんもいい人生を歩んでいってくれると、私達も嬉しいから」

「そうなると、いいんですけど」


 困ったようにそう言ってから、美喜さんは僕達家族に向かってぺこりと頭を下げる。そして、ゆっくりと玄関のドアノブに手をかけて外へと出て行った。


「また遊びに来てね、美喜ちゃん。あの子と一緒に待ってるから」


 母が最後にそう呼びかけていたが、美喜さんの背中は振り返る事なく、やがて玄関のドアに阻まれて見えなくなった。


 とたんに、しんとした静寂が家の中を包んだ。姉を知っている全ての客がいなくなった事で、母の顔から少し生気が失せていき、父もこの静寂から逃げ出そうとするかのように書斎の方へと向かっていく。そんな家にいるのが嫌で、僕も慌てて身を屈めて靴を履き始めた。


「あら、どこか行くの?」


 母が、ぼんやりとした口調で尋ねてくる。きっと僕の背中ではなく、何もない虚空を見つめながら言っているに違いない。そういう時の母の顔が一番見たくないので、僕は靴ひもを結び直すふりをする事で見ないように努めた。


「うん。姉さんの所に行ってくる」

「そうなの?」


 母の声が心なしか明るくなった。


「じゃあ、お姉ちゃんと一緒に帰ってくるわね? あまり遅くなっちゃダメよ?」

「うん」

「お姉ちゃんに、今日の晩ごはんは何がいいか聞いておいてくれる?」

「うん、分かった」

「行ってらっしゃい」

「……行ってきます」

 

 そう言って、僕も玄関を出る。背中越しに、母が片手を振って見送っている気配を感じていた。

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