第42話
どんな言葉で表していいのか全く分からない大きな感情が一晩中くすぶり続けてくれたおかげで、僕は朝まで一睡もする事ができなかった。学校があれば、まだ2年A組の中にあるかもしれない姉の面影を探しに行けるのだが、あいにく今日は日曜日。あの人もいないだろうから、きっと校門をくぐる事さえできない。あきらめた僕は、午前10時をだいぶ回った頃になってのろのろとベッドから起き出した。
一応パジャマから部屋着に着替えて、自室を出る。そのまま階段を降りて台所に繋がるドアを開けると、ふわりと甘ったるい匂いが漂ってきた。
「あ、おはよう」
そうあいさつしてきたのは、美喜さんだった。台所で一人、パジャマの上に母の薄手のパーカーを羽織っている姿でフレンチトーストを焼いている。昨夜の僕とのやり取りなどなかったかのように、ふんふんと鼻歌なんか歌っていた。
あの後、僕は急に居たたまれなくなって、逃げるように姉の部屋から飛び出した。そして、さっきまでずっとくすぶり続けていた感情のせいで眠れなかったのだ。しょぼしょぼとしぼんでしまいそうな両目で瞬きをしてから、僕は昨夜とは全く様子の違う美喜さんをじっと見つめた。
「……ん? おはようったら」
一度目のあいさつが聞こえてなかったとでも思ったのか、美喜さんがもう一度同じ言葉を放つ。別に聞こえていなかったわけじゃないが、卵と砂糖が混ざった牛乳をフライパンがじゅうじゅうと焼く音や、バターがわずかに焦げる匂いの方が気になってしまっただけの事だ。それを悟られるのが何となく嫌で、僕は急いで「おはよう」と返した。
「よく眠れた?」
自分の事を棚に上げて、おかしな質問をしてしまう僕。美喜さんはフライ返しを巧みに操りながら「まあまあね」と返した。
「久しぶりにあの子の部屋に来たんだから、ぐっすり眠れるものだと思ってたけど……今の仕事柄、ちょっと難しかった」
「ふうん、そう」
「あ、でも、泊めてもらったお礼はちゃんとするから。ほら、好きだったでしょ? フレンチトースト」
そう言いながら、肩越しに二カッと白い歯を見せてきた美喜さんは、あの頃と全く同じだった。
あの頃、お泊まりをしに来た次の日になると、美喜さんは必ずお礼という名目でフレンチトーストを作ってくれた。今よりあまりうまくない手際だった上、まだ焼き切ってないうちにひっくり返そうとするものだから、卵と砂糖入りの牛乳が何度もフライパンの中で飛び散り、それが美喜さんや姉の服にいっぱいかかっていた。一度だけだが、二人の背後に立っていた僕も被害を被った事がある。
それでも僕は、美喜さんのフレンチトーストが楽しみで仕方なかった。食パン全体にじんわりと染み込んだ甘い味と口の周りに絡む食感が大好きだったし、姉と美喜さんの小遣いに余裕があれば、コンビニでバニラアイスも買ってきてフレンチトーストの上に乗っけてくれた。それが幼かった僕にとってはものすごく贅沢な事に感じられたし、何より特別な存在になれたような気分になっていたので、本当に嬉しくてたまらなかった。
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