第35話

正直なところを言えば、僕は生島清司の顔を覚えていない。判決が出るまで、父も母も事故として処理されたあの日の記事や書類を片っ端からかき集め、生島清司への厳罰をずっと訴え続けてきたが、彼の刑罰が確定したと同時にそれらを全て処分してしまった。そしてその頃から壊れ始めた母とまだ幼かった僕を気遣ってくれたのか、父は彼に関して何も話してくれなくなった。


 かといって、僕は何も知らない訳じゃない。年を重ねるにつれて、生島清司の事を知りたいと思い始めるようになった僕は、自分の手が及ぶ範囲でできる限り調べた。そしてある日、ネットの情報で彼には奥さんと一人娘がいるという事を知った。


 炎のように、怒りが沸き上がった。僕達がどんなに待ったって姉は帰ってこないというのに、あの男にはほんの数年の刑期を務め上げれば、その帰りを待っている家族がいるんだ。どうしてこんな理不尽な事が起きるんだと、あの判決の日に見た生島清司の背中を何度も何度も思い出した。


 それは、きっと父も同じだったんだと思う。刑事裁判が終わって少しした頃に、父は民事裁判を立ち上げる準備を始めた。


 心ない人からは「娘の命を金に換えた守銭奴」なんて言われた事もあったようだし、どんな大金をもらってもそれで姉がいなくなった悲しみが癒える訳じゃない。それでも父が民事裁判を起こそうとしたのは、それだけ重い罪を犯したのだと生島清司に思い知らせる為だったんだと思う。


 だが結局、父は民事裁判の準備を途中で取りやめた。姉の事を担当してくれた弁護士の元に、ある一人の女性が訪ねてきた事がきっかけだったという。


「どうか民事裁判を取り下げて下さい。その代わり、お支払いすべきものは私の生涯をかけて全てお支払い致しますから」


 それは生島清司の妻と名乗る女であったと、父と弁護士の会話を盗み聞いて知った。彼女はまずは誠意を示したいからと、大きめのバッグから三百万円を取り出し、弁護士に渡した。


「どうか、どうかこの通りです。金銭的な償いは、全てこの私が一人でやります。ですから、これ以上生島や娘を責めないで下さい。この通り、後生です……!」


 そうして女は、毎月決まった額の損害賠償金を振り込む事を約束し、今もそれを律儀に続けているようだ。僕の知らない時に、何度か姉の仏壇に手を合わせたいとやってきた事もあったようだが、それは父が頑なに拒んでいるようだった。


 幼い頃の又聞きで知った事なので、僕はその女の名前どころか顔も知らない。風の噂で生島清司と離婚したらしいと聞いたが、それでも金銭を振り込み続けるあたり、悪い人間ではないのかもしれないと思う。


 だからといって、姉を奪った事実を許すのかと聞かれればそれは違うときっぱり言える。僕は心の底から憎くてたまらなかったんだ。顔すら知らない、姉を奪った奴とその家族が。それなのに、今、僕の目の前に、あの男の娘がいる……。

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