第33話

「あ……」


 制服姿の木下は僕の顔を確認するやいなや、気まずそうにふいっと視線を逸らした。その全身はガクガクと小刻みに震えていて、本当なら今すぐにでもこの場から逃げ出したいとばかりに怯え切った表情だってしている。だが、それに耐えているかのようにじっとしたまま動こうとしなかった。


「木下? お前、何で……」


 僕は美喜さんの右手首を話して、木下に向き直った。


 おかしいな。僕の記憶が正しければ、木下は昨日、僕に「明日会ってくれないか」と頼んできた。つまり、今日会ってくれって事だ。僕は大事な用事があるからと、それをはっきり断った。木下には関係なかったから、姉の十三回忌法要だとは言わずに。


 まさか、もう一度頼みに来たのか? しかも、こんな時間に? 本当にその通りだとしたら、とんでもない非常識だ。何の用があってそうしたいのかは分からないが、全く勘弁してほしい。


「悪いけど、帰ってくれないか?」


 僕は昨日と同じように、ぴしゃりと言った。


「今日は一日大変だったし、もうこんな時間だ。これ以上遅くなる前に帰れよ」

「え。で、でもっ……」


 僕の言葉に木下は思わずこっちに顔を向き直したが、表情は怯えたままだ。それでも、何とか声を絞り出して言葉を発しようとした。


「ごめ、ん……。それは、ちょっと無理……」

「何言ってんだよ。ほら、家の近くまで送ってくから」


 全く訳が分からない。親とケンカでもして、ここまで飛び出してきただけだっていうなら、さっきまでの美喜さんとの会話の内容が成立しない。そもそも、僕が知っていた頃の美喜さんは、姉と比べて少し気が強いようなところもあったけれど、根はものすごく優しくて思いやりのある人だった。あんなふうに乱暴に人を怒鳴りつけたり、ましてや殴りかかろうとするような人じゃなかった。


 とにかく、いつまでも冷たくて固いアスファルト道路に座り込んでいるのも毒だろうと、僕は木下に向かって手を伸ばした。正直、だいぶ面倒くさいと思ってはいたものの、そのまま彼女が僕の手を掴んでくれれば、自分の足でしっかり立つまで引っ張り起こしてやろうという親切心くらいはまだ持ち合わせていた。それに、姉ならきっとそうしてやるだろうとも思ったから。


 だが、そんな僕の手を、今度は美喜さんが横からしっかりと抑え込んできた。


「そんな奴に、情けをかけてやる必要はないわ!」


 憎々しげに、そう言い放つ美喜さん。また、木下の全身がびくりと震えた。


 美喜さんはいったい、何をそんなに怒っているのか。ずいぶんと変わってしまった見た目よりもそっちの方が気になってしまった僕は、美喜さんの怒りに歪む顔を見つめながら「どうしたの……」と声をかけた。


「美喜さんらしくない。何で?」

「何でって……あんた、知らないの?」


 僕の問いに、美喜さんも問いで返してくる。だが、すぐに何かを察したようで、美喜さんはしゃがみこんだままの木下をにらみつけた。


「そう。今は木下って名乗ってるんだ」

「……」


 木下は何も答えない。ただ押し黙り、美喜さんの言葉に必死に耐えていた。


「親子そろって、本当に卑怯者ね。何もかも、あんた達のせいだっていうのに」

「美喜さん、やめろって。いったいどうして」

「やめられる訳ないでしょ! こいつは、あの男の子供よ!?」


 あの男。その言葉を聞いた瞬間、僕の体の中をとんでもなく冷たいものが一気に迸った。思い出さないように、無駄に思い返す事がないようにと必死に努めていた名前が脳裏に蘇り、たまらなくおぞましくなってくる。そんな、でもまさか……。


「嘘なんかじゃないからね」


 僕が「嘘だよね」と聞く前に、美喜さんが言った。


「こいつは、あの男の――生島清司いくしませいじの娘で間違いないんだから!!」

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