第28話

「……それでは、これで失礼します」


 八時をゆうに過ぎた頃、玄関先で洋一さんがそう言いながら頭を下げる。彼の後ろに控えるように立っていたみゆきさんも、同じように頭を下げてきた。


 ひと通り食事も終わって、親類の人達がアルコールの余韻を楽しんでいる中、ふいにあの人が「明日も早いので、この辺でお暇致します」と遠慮がちに言ってきた。それに便乗したのかどうかは分からないが、洋一さんとみゆきさんも「じゃあ……」と一緒になって腰を上げようとした。たまたま二人のすぐ近くにいた僕は、とっさに洋一さんの腕を掴んで引き止めていた。


「ま、まだいいじゃん。久しぶりなんだし、もうちょっと話そうよ」

「あ……」


 姉を卒業すると言った先ほどの言葉を気にしているようで、洋一さんの目が泳ぐ。そんな事はさせまいと、僕がさらに掴んでいた手の力を強めた時だった。


「ごめんなさい。私達も明日早いのよ……」


 僕の手の上にそっと重ねるようにして、みゆきさんのそれが乗ってくる。こぢんまりとしていてか細く、全く力のない真っ白な手。なのに、僕はそんな手に抗うどころか動く事さえままならなかった。


 何でだよ、と悔しく思う。洋一さんは、姉の恋人だった人だ。姉がいなくなってしまった後もずっと悲しんでくれて、ずっと姉の事を想ってくれて、これからもそれがずっとずっと続いていくはずだったのに。それを、この女が――そう、強く思った時だった。


「それじゃあね。また明日、学校で」


 動けない僕の背後から、あの人がそう声をかけた。疲れてしまったのか、芳名帳に名前を記入していた時は平気だった両腕がぷるぷる震えている。それに気付いた洋一さんが、慌てたように「吉岡先生」と名前を呼んだ。


「俺達ももう出るんで……途中まで送らせて下さい」

「いや、大丈夫だ」


 あの人が、首を横に振った。


「もう少し、あの子の側にいてやりなさい」

「え、でも」


 それに対して洋一さんは、ずいぶんと居心地が悪そうに体を揺らしながら食い下がろうとする。何だよ、そんなに姉の側に居たくないのか。もう、姉は必要ないって事なのか……!


 いつの間にか洋一さんの腕を離してしまっていたようで、僕の手は中途半端な形で宙ぶらりんとしていた。そんな僕の手からみゆきさんのそれも離れていたようで、彼女はあの人に諭されてしょんぼりとしている洋一さんの背中をじいっと見つめていた。


 そうやって、あの人が帰っていった数十分後に洋一さんとみゆきさんは玄関先に立ち、僕と父がそれを見送る。後片付けに忙しい母は、台所の方から「また来てね」なんてずいぶんのんきな事を言っていた。


 頭を下げ続ける洋一さんに向かって、父は「ああ」ととても優しい声色で返す。そして彼とみゆきさんを交互に見つめて、微笑みを浮かべていた。

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