プロローグ

第1話

「もう、いいや……」


 それが、姉の最期の言葉だった。


 あの日の事は、今でも鮮明に覚えている。五月の連休最終日の昼下がりで、本当によく晴れていた。僕達家族は二泊三日の旅行から帰ってきたばかりだったけど、まだまだ遊び足りなかった当時5歳の僕はこれでもかとわがままを言いまくった。家から一番近い公園に行きたい、もっと遊びたいと。


 両親はげんなりとした表情を隠す事すらできなかったけど、姉は二つ返事で「いいよ」と言ってくれた。そして両親に夕飯までゆっくりしててと勧めた後で、僕が懸命に伸ばしてきた手をとても優しく掴んでくれた。


 姉は、とても色白な人だった。指先まで真っ白なその手は絵本の中のお姫様みたいにきれいなのに、絶妙な力加減で僕を公園まで引っ張っていってくれる。5歳だった僕は、いつもどんな時だって姉が大好きだった。美人で、優しくて、大した事ない僕のわがままを何だって叶えてくれる姉が、本当に――。


 僕の家と目指していた公園は、直線距離に換算すれば200メートルも離れていない。横断歩道を二つ渡って、その先に見える曲がり角を右に折れればすぐの所にある。だが、二つ目の横断歩道があるアスファルト道路は一つ目のそれとは違って、5歳の目でも分かるほど大きなものに造られていた。


 高速道路や空港へのアクセスにも多用されている二車線道路がこの先にあったから、交通量もそれなりに多い交差点だった。乗用車はもちろん、長距離バスや大型トラックがさほど間を置かずにどんどん通り過ぎていく上、歩車分離式信号機が設置されていたから、一つ目の横断歩道より待ち時間が長い。あの日より少し前、この信号機に引っかかってイライラしながら待つサラリーマンを見かけた事があった。


 だが、5歳の僕は、この信号機も好きだった。いや、正確には信号機によってもたらされる長い待ち時間が大好きだった。


 この二つ目の横断歩道を渡って、角を右に曲がってしまえば、公園はすぐ目の前に見えてくる。すると姉は、きれいで真っ白な手を僕の手からするりとほどいて、「ほら、行っておいで」と言うのだ。その瞬間が、僕はたまらなく嫌だった。まるで、姉が僕と一緒にいる事を拒んでいるかのような錯覚に陥って寂しくなるから。

 

 だから、信号の待ち時間が長ければ長いほど、姉と手を繋いでいられる時間が延長されると分かった僕は、一分、いや一秒でも長くこの時を堪能できて幸せだった。こんな時が、これからもずうっと続いていくんだと、5歳だった僕は一片も疑う事なく信じ切っていた。

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