第38話




「就職なんて、しなきゃよかった……」


 長い時間をかけてここまで話し終えた後、私の口からそんな言葉がぽつりと出た。それに驚いた直之と甲斐崎さんが一斉にこっちを見てきた気配は感じていたけど、私はそんな事に構う事なく、机の上に投げ出していた自分の両腕をぼんやりと見つめていた。


 本当に、就職なんてしなければよかった。もしあの時、進学する道を選んでさえいれば、絶対に今とは違う人生を歩めていたはずだ。


 十五年間もこの町から離れている事はなかっただろうし、就職するよりももっとはっきり形が見えるやり方で祖父母にたくさんの孝行ができただろう。実家だって失う事もなかった。そもそも直之と出会いさえしなければ、不倫されて今の苦しみを味わう事だってなかった。そして何より、詩織の死に目に会う事ができたかもしれなかったのに。そう思うと、悔しくて悲しくてたまらなかった。


 こんな事になるなら、もっとたくさんの時間を詩織と過ごしておけばよかった。まさか、卒業式の日に校門の前で別れたのが本当に最後になるなんて。私の中では、詩織はまだ高校生のままだ。あんな黒縁の遺影や仏壇のフォトフレームの中にいる、大人の詩織なんて私は知らない。死に直面して怖かったはずなのに、それが一番幸せな時なんだと満足げに言い遺したっていう詩織を、私は何も知らない……!


 お願い、神様。どうか、詩織との出会いの日からやり直させて……。頭の中で、そう無意識に願ってしまっていた時だった。


「塔子さん。妻はあなたとは対等でいたい、だから頑張るんだといつも言っていましたよ」


 うつむき加減になっていた私の頭上から、甲斐崎さんの優しい声が降ってくる。思わず顔を上げると、彼は少し涙目になりながらもちゃんと言葉を紡いでくれていった。


「確かに徐々に症状が進んでいって、時には弱気になってしまう事もありましたが、それでも妻は遠い場所で懸命に働いているであろう塔子さんに思いを馳せながら、必死に戦い続けました。さすがに自分の店を持つ事は叶いませんでしたけど、きちんと専門学校の卒業資格を経て、数年間アパレルショップで働く事もできたんです」

「……」

「逆プロポーズを受けた時はさすがに驚きましたが、妻らしいひと言でした。私は生涯、あの言葉を忘れません。この胸に収めている限り、妻と共に生きている実感をまだ保っていられるんです」


 私は、甲斐崎さんが心底うらやましかった。この人は私の知らない詩織を、ずっと見守り続けてくれていた。最期の瞬間まで共に歩んでくれていた。私が得られなかった幸せを、詩織と共に築く事ができた人なんだと。それなのに、詩織はそんな私と対等でいたいと言ってくれてたなんて。自分の事だけで精一杯になってた挙げ句、あの子を十五年間もほったらかしにしていた、こんなひどい私と対等だなんて――。


 また涙が溢れ出しそうになって、私は息を詰める事でそれを必死に耐える。そんな私に、甲斐崎さんがさらに言った。


「学校に、行ってあげて下さい」

「え……?」

「妻の、三つ目の願いです。これだけ言えば分かるだろうと、妻は言っていました。どうか、よろしくお願いします」


 甲斐崎さんのその言葉に、私は大きく息を飲んだ。

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