第32話
……私って、いつの間にこんなに足が速くなったっけ? 何で全然息が切れないんだろう? こんなに走れるんだったら、選手をやりたくないなんてワガママ言わなきゃよかったかな。そしたら、あんな事にはならなかったかもしれないのに。
そんなまぬけな事を考えてしまえるくらい、視界に入る窓からの景色が一気に近付いては遠ざかっていく。廊下を駆けていく自分の乱暴な足音も、あまり耳に入ってこなかった。
気が付けば、私は保健室の前まで来ていた。いつも詩織とここで過ごしていたから、意識しなくても体がすっかり覚えてしまっていたのかもしれない。それから、水曜日のこの時間、新浜先生はいない場合が多いって事も。
ほら、やっぱりだ。案の定、保健室のドアには『ただいま席を外しています』のプレートがかかっている。でも、詩織みたいに急に体調を崩したりする生徒がいるから鍵がかかっている事はなく、ドアは私の手に従って何の抵抗もなくスライドしていった。
誰もいない保健室はしんと静まり返っていて、いつもより消毒液独特の匂いが濃いように感じられた。その上ひどく薄暗かったけど、何だか電気を点ける気にもなれず、どっと疲れが出てきた私はそのままふらふらとベッドの方へ向かった。
もうこのまま横になりたい。あの真っ白な布団を頭からかぶって、何も考えずに眠ってしまいたい。あ、でも、ベッドを使うなら内線電話を使って一応の許可を取らなくちゃ。新浜先生が出なくても、職員室にいる誰かに伝わればいいんだから……。
ちらりと視線だけ動かして、机の上の電話機を見やる。そして、そろそろと右腕を伸ばして受話器を持ち上げようとした時だった。
「……見つけた。やっぱり、ここにいたんだ」
まるでかくれんぼをしていたかのように、背後からそんな弾んだ声が聞こえてきた。えっと思いながら反射的に振り返ってみれば、保健室のドアの所に詩織がぜいぜいと息を弾ませながら立っていた。
「もう……急に教室出ていくから、びっくりしちゃったじゃない。でも、見つかって、よかった……」
そう言いながら、ゆっくりとこっちに近付いてくる詩織。それと同時に彼女の乱れた息の音も徐々に大きく聞こえてきて、私は一気に焦る。詩織が私を追って走ってきたんだと想像するには、あまりにも簡単過ぎる状況だった。
「ちょっ……何やってんの!?」
詩織が半分も保健室に入ってこないうちに、私の方から彼女の元へと駆け寄る。荒い息遣いがよりリアルに感じられた。
「吸入器、早く吸って! 発作起きちゃう!!」
「え? う、うん……」
私の言葉を聞いて、それまですっかり忘れていたとでも言わんばかりに一瞬きょとんとした表情を浮かべた詩織だったが、すぐにスカートのポケットの中から吸入器を取り出すと、いつものように口に咥えて中の薬をしゅこっと吸い込む。そして大きな深呼吸を二度三度と繰り返すと、「もう大丈夫だよ」と私に笑顔を向けてきた。
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