第20話

ひゅーっ、ひゅーっ……!


 ふいに、私の背後からこれまでの人生の中で全く聞いた事のないような不快な音が聞こえてきて驚いた。だって、これまで私の背後から聞こえていたのは、詩織が机の上に教科書やノートを置くカタン、コトンといった優しくて気遣いのある音だけだったのに。だから反射的に振り返ったら、もっと驚いた。詩織が胸元を押さえて、苦しそうに上半身を折り曲げていたから。


 詩織のそんな様子に気付いたクラスの約半分がざわついたが、残りの半分と榊先生はひどく冷静だった。いや、冷静というよりは「あ、またか」とでも言いたげな冷めた感じだったというか。その証拠に、増田君のこんな言葉が聞こえてきた。


「おい、三嶋。お前、保健係になったんだろ? だったら早く南を保健室に連れていってやれよ」


 まるで、せいせいしたかのような言いぶりだった。今度はそれに驚いて彼の方を振り返ってみれば、増田君は目の前の状況などまるで何でもない事であるかのようにへらへらと笑っていた。


 どうして彼がそんなふうに笑っていられるのか、そしてどう返事をしていいのかが全く分からずに呆然としてしまった。すると、その苦しそうな音を口の中から何度も吐き出していた詩織が「だ、だいじょ、ぶ……」と切れ切れに言ってくる言葉が聞こえてきた。


「これ吸っ……ら、治ま、る、か……ら……」


 そう言って、震える手で詩織が取り出してきたのは、L字状に近いけどあまり見慣れない形をした手のひらサイズの容器だった。詩織はその折り曲がっている部分のふたを開けると、そこを口で咥えて、縦に伸びている部分の先にある突起型のボタンを押す。しゅこっ。また聞き慣れない音がしたと思ったら、詩織は容器から口を離して、すうっと思いっきり深く息を吸い込んだ。


 ほんの数秒ほどしかかからなかったその行為に、私だけじゃなくてクラス中の視線が釘付けになる。息を吸い込んだ後、詩織はその場で少しの間うなだれるような格好になっていたけど、やがてそんな視線に気が付いたかのようにぱっと顔を上げて、榊先生に声をかけた。


「すみません、先生。ひとまず治まりましたけど、一応保健室に行ってきてもいいですか?」


 嘘って思えるほど、はきはきとした口調だった。だって、今の今までものすごく苦しそうにしていたのに……。


 榊先生もこんな詩織の事などすっかり慣れているといった体で「ああ、いいぞ」と答えた。


「昼休みが終わるまで休んでいなさい。ちなみに、南は何の委員会か係になった?」

「園芸委員です」

「ああ、分かった。帰りに花壇に水はやれそうか?」

「はい、じゃあ失礼します」

 

 ゆっくりと立ち上がって一礼すると、詩織はその手のひらサイズの容器だけを持って教室を出ていく。私がまた呆然としながら、そんな彼女の背中を見送っていたら。


「三嶋、南についていけよ」


 また、増田君の声が聞こえてきた。

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