第16話
「私、見学だから」
そう言って、私から視線を外した詩織は、またコートの方に目を向ける。コートでは男子女子ともにネット用の支柱を備え付けている最中で、きゃあきゃあと楽しげな声が聞こえていた。
そんな中、私は何だか納得いかない気持ちになった。見学っていってもきちんと体育着には着替えているし、顔色だって悪くないし、熱もあるようにも見えない。呼吸だって整っているし、とても体調が悪くての見学だとは到底思えなかった。
サボりという三文字が頭の中を占め、冗談じゃないと思ってしまった。保健体育を担当する永野先生はひどく粘着質で、厄介な性格をしている。どこの体育大学出身か知らないけれど、ちょっと運動のフォームが崩れているのを見ただけで「違う違う、そうじゃない!」「もっと大きく腕を伸ばして、足も爪先までもっと集中する!」「ボールの持ち方がなってない! ここをこうして握らないと、速い球を投げられないから!」と望んでもいないアドバイスを長々としてくる。その上、何日か前など、体育の授業をサボって屋上で寝ていた三年の男子生徒数人を問答無用で捕まえ、半日近くも職員室の前の廊下で正座させてたっけ……。
見ただけでこっちの両足まで痺れ切ってしまいそうなその有様に、永野先生だけは怒らせるまいと心に誓ったばかりだ。なのに、とても体調が悪いようには見えない詩織のわがままの為に、下手すれば二クラス分の女子全員が割を食うのはたまったものじゃない。私は急いで詩織の右腕を掴んだ。
「ダメだよ、ほら立って」
詩織の右腕を引っ張りながら、何とか立たせようとする私。でも詩織は膝を空いた左手で抱えたまま、全く立ち上がろうとしなかった。
「だから見学なんだってば、やめてよ三嶋さん」
少しいらだったかのように、詩織も私の体育着の胸元に書かれてある名字を見ながら言った。
「永野先生からはちゃんと承諾をもらっているから、何の問題もなく休めるの」
「え? 何それ、どうして!?」
正直、驚いた。あの怖い永野先生があっさり了承するなんて、いったいどんな手を使ったのか。
まだまだ高校生の子供でそれ以上の想像力なんか持ち合わせていなかった当時の私は、当然の事ながら詩織をズルいと思った。あまり大した運動神経を持っていなかった私は、小学生の時から体育が苦手でしょうがなかったし、何度ズル休みをしてしまおうかと思ったか知れない。高校に入ってからもそれは変わらなかったが、永野先生が担当になってからというものはすっかりあきらめていた。
なのに、この子はこうも簡単にサボれるんだ……。
私は掴んでいた詩織の右腕をぱっと離すと、今度はキッと彼女を見下ろして言ってやった。
「あっ、そう! 悪かったわね、余計なおせっかいかけて!」
捨て台詞みたいにそう言うと、私は詩織にくるりと背中を向けて、再びコートの真ん中へと向かっていった。この時、詩織がどんな表情で私の背中を見送っていたのかは知らないが、これが私達二人の最初の会話になった。
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