第13話

「籍を入れた後は、規則に従って妻の担当から外れました。ですが、そのおかげで最も近くにいてやれたような気がします。妻の最期の瞬間、医者として冷静に受け止めるのではなく、夫として存分に悲しんでやれた事、本当によかったと心から思っています」


 そう言って、甲斐崎さんは私と直之から視線を外して、仏壇の方へと顔を向ける。その表情があまりにも優しく見えたものだから、少なくとも私は下卑た思考を一ミリも思い起こす事なく済んだ。だからだろう、私はすんなりと「ありがとうございます」と甲斐崎さんにお礼を言う事ができた。


「ご存じの通り、私と詩織は高校を卒業後、一度として会っていません。それどころか私は、こちらに十五年以上戻っていなかったんです。なので、私は卒業後の詩織を何一つ知らなくて……」

「……」

「あの、恥を忍んでお尋ねしますけど、詩織はその後どういうふうに……」

「……」

「あ……」


 言葉が詰まってしまい、私は黙り込んだ。


 何だか、ものすごく申し訳ない気分になってきた。まだほんの少ししか話を聞いていないが、それでも詩織と甲斐崎さんがどれほど強い信頼と絆で結ばれて夫婦をやってきたのかなんてすぐ分かる。それに比べて私と直之の今の状態は、どれだけ滑稽な事だろう。


 もし、この場に詩織がいて、今の私達を知ったら、いったいどんなにがっかりする事か。いつかお互いの幸せの自慢大会やろうとあんなに楽しみにしてくれたのに、どんなに怒るだろうか。何度、嘘つきと言われる事だろうか。


 さすがに直之もこの状況では次の句が紡げないようで、私と一緒に黙り込んでいる。そのまま延々と、この気まずい空気が続いてしまうと思っていたのだが。


「大丈夫ですよ」


 とても穏やかな声で、甲斐崎さんがそう言ってきた。


「妻は、詩織は何一つ変わっていませんよ。あなたが知っている通りの詩織のまま、天寿を全うしていきました」

「え……」

「詩織は、あなたとの約束を全部果たしていったんです。その証拠の一つを持ってきますね」


 甲斐崎さんはおもむろに椅子から立ち上がると、そのまま一度リビングのドアをくぐり抜けて出て行った。とたん、場がしんと静まり返り、直之と二人残された事で空気がすぐに気まずいものへと変わってしまった。


 もし、何の問題もない仲睦まじい夫婦だったのなら、きっとここで直之は気落ちしている私の背中をさすりながら「大丈夫か?」とか「俺がついてるからな」とか、ありきたりでも心地の良い言葉をかけてくれた事だろう。でも、今の直之からはそんな事全く期待できない。若い女の体に触れたその手で、どんな睦言むつごとをささやいたか分からないようなその口でどんなに励ましてくれても、全部虚構に見えてしまうんだろうから。

 

 もういっそ、詩織にこれでもかとばかりに怒られてしまいたい。そう思ったのと、甲斐崎さんが「お待たせしました」と言いながら戻ってきたのは、ほぼ同時だった。

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