第10話

「……すみません、散らかっていて。妻がいなくなってからというもの、どうもうまく片付けができず。お二人が来て下さるというので、昨日から頑張っていたのですが、妻には遠く及びません」


 私からたい焼きの袋を、そして直之から手土産の紙袋をそれぞれ受け取ると、甲斐崎さんは先に立って私達を家の中へと案内してくれた。


 散らかっていて……なんて言葉を口にしたものの、家の中はとても居心地のいい清潔感に満ち溢れた空間だった。そりゃあ、有名人の豪邸のように大仰な間取りをしている訳でも貴重な調度品が並べられている訳ではないけれど、全く埃っぽくない澄んだ空気がすんと鼻の奥まで心地よく通り、フローリング張りの床や廊下、窓ガラスもピカピカに磨かれている。少し古くなってはいるが、壁紙にだってあまり汚れや傷みが見受けられない。通されたリビングに至っては、これまでの夫婦の穏やかな生活を物語っているかのように、二人掛けの真っ白なソファがその真ん中に優しく位置どっていた。


 うちとは全くの正反対だなと思っていたら、ふとそのソファから左斜め前の奥まった所に設けられている物が目に留まり、私はヒュッと大きく息を飲んでしまった。と、いう事は、やっぱりこの瞬間まで私は心のどこかで納得できていなかったというか、現実逃避めいた思いを描いていたんだろう。あの手紙に書かれていた事は嘘か冗談で、今にもこの家のどこかから詩織がひょっこり現れて、「久しぶり、塔子」なんて言ってくれるものだと。


 でも、目の前の現実は私のそんな儚い妄想をいとも簡単に打ち砕く。ソファの左斜め前、奥まったそこにあったのはとても真新しい仏壇。そして、そこに戒名が刻まれた位牌と共に並べられていたのが、満面の笑みを浮かべている詩織の写真が入った小さなフォトフレームだったのだから。


「詩織……」


 ぽつりと口から出た彼女の名前を聞き取ったのか、私の後に続いてリビングに入った直之も仏壇に気付いて、大きく両目を見開く。きっと直之も、あの手紙の内容に今の今まで疑っていたんだろう。「本当だったのか……」と呟く声が、私の耳に届いた。


「塔子さん、たい焼きありがとうございました」


 リビングに隣接していた台所に入ってから、甲斐崎さんがそう言ってきた。


「詩織、この店のこしあんたい焼きが本当に大好物だったんです。最後に入院した時も、『あそこのたい焼きが食べられないと、死ぬに死にきれない』とか言ってたんですが、もうその頃にはほとんど固形物が食べられなくなっていたので……」





『最後の晩餐に選ぶなら、やっぱり商店街のたい焼き屋さんのこしあんだよ! もうこれでもかってくらいに食べちゃいたい!』





 ふいに、そう言っていた詩織の言葉を思い出す。すると、一気にあの子がいなくなってしまった現実が怒涛のごとく押し寄せてきて、私はその場でみっともなくぼろぼろと涙が溢れて止まらなくなり、わあっと大声をあげながらしゃがみこんでしまった。

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