第124話
あれは、六月十三日の木曜日の事だった。
この日、俺は午前九時から翌日同時刻までの勤務となっていて、朝食を大急ぎで平らげていた。ガツガツとトーストを口に詰め込んでいる俺とは対照的に、妊娠六ヵ月目に入った藍子はのんびりとコーンフレークなんか食べている。つい最近までつわりがひどかった藍子にとって、コーンフレークはずいぶんと頼もしい味方だった。
妊娠が分かってすぐ、藍子は産休を取った。子供を生んだ後も仕事は続けたいという藍子の意思を尊重してくれた勤め先の会社は、快く彼女の背中を押してくれた。直属の上司に当たる人に至っては「少ないけど何かの足しにしてほしい」と気の早い祝い金まで持たせてくれたそうだ。
「皆、あなたの事を歓迎してくれてる。早く会いたいな」
検診に行くたびにもらってくるエコー写真と、徐々に膨らんで重くなっていく腹部。それらを交互に撫でながら愛おし気に子供に語りかける藍子の姿は、まさに母親そのものだった。ずっと待ちわびていた子供が、あともう三ヵ月強で会えるのだから、当然といえば当然だ。俺ももっと父親らしくならなければ、と負けられない思いだった。
この日も、そんなふうに日常を送れると思っていた。今思えば、あの頃は梅雨に差しかかっていたせいかデスクワークと訓練ばかりで、出動が必要なほどの大きな火災が起こっていなかったから、きっと油断してそう思い込んでいたんだろう。
だから、藍子のこんなお願いも何の気なしに聞き入れてしまった。
「ねえ公平、今日ランチに行ってもいい?」
コーンフレークの下にたまった牛乳をスプーンで弄ぶようにかき混ぜながら、藍子がそう言ったのを覚えている。確か、高校時代の友達が帰省していて、妊娠祝いにとある喫茶店のランチメニューをごちそうしてくれるとの事だった。俺がそれを二つ返事で了承すると、藍子はひどく嬉しそうに目を輝かせた。
「え?いいの!?」
「お前、ずっとつわりで外出もままならなかっただろ?それもやっと落ち着いたんだし、ゆっくり羽伸ばしてこいよ」
「わあ、ありがとう公平」
「とはいっても、はしゃぎすぎて転んだりするなよ?足元をよく見て、刺激物が入ってるメニューは避けて…。それから、絶対禁煙席に座れよな」
「はいはい、分かってます。もう、パパは心配症ですねえ?」
同意を得ようとしているのか、藍子がまた自分の腹部を撫でる。この頃、俺達の子供は彼女の中でよく動くようになっていた。
「あ、返事した。ポコポコ動いてる」
「何だよ、ママの味方か?」
「そうみたい。あ、ほら。早く行かないと遅刻するわよ」
藍子に促されて壁の時計を見ると、確かにもうすぐ家を出なければならない時間になろうとしていた。俺は慌ててトーストの残りを口に突っ込むと、玄関に向かった。
「行ってきます、ランチ楽しんで来いよ」
「うん。行ってらっしゃい」
バタバタと玄関に向かって言った俺の後を追えず、ダイニングのテーブルから手をひらひらと揺らす藍子。これが、腹の大きかった彼女を見た最後だった。
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