第113話

なのに。そう、覚悟できていたのに。


「ご…め、ん…」


 ぽすんと、俺の肩口に何かが乗ってくる優しい感触がした。もう二度と開く事のないと思っていた両目をゆっくりと開けてみる。そして、ほんの少しだけ首を横に向けてみれば、そこには章介のうなだれている頭があった。


「え…」

「ごめ…、じゅ…ゃ…」


 どういう事だ?さっきまでと様子がまるで違う。


 あの恐ろしい唸り声は、俺の知っている穏やかな声色になっている。俺の襟元を掴んで震えているその両手には、いつもじゃれ合ってた時に触れてきてくれた懐かしい手触りがある。そして何より、うなだれていても前髪の隙間から見えているその両目からは、もう血の涙を流していない。透明できれいな普通の涙だった。


「章介…?」

「ごめん、な…。淳也…。怖がらせて…、ごめ…」


 章介の上半身が再び乗り上げてきて、腹の上にまた濡れた感触が走る。でも、今度はそれを恐ろしいとは思わなかった。章介の額が、俺の肩口に甘えるようにすり寄ってきたから。


「そんなつもり、なかっ…。ただ、謝り…った」

「え…」

「あ、あのと、き…」


 あの時。そう言われて、俺の頭の中であの瞬間がフラッシュバックする。


『見損なった』

『…あ?』

『淳也がそんな奴とは思わなかった』


 そう言って、伝票を手に取って俺に背中を向ける章介。思えばこれが、章介との最後の会話。まともな姿の章介を見た最後だった。この直後に、俺もお前もまばゆい閃光に包まれて――。


「ごめん、な…」


 俺の襟元を掴む章介の手が、また震えた。とても悲しげに、とてもつらそうに。


「ひどい、事…言って、ほん…ぅに、ごめ…」


 俺は大きく目を見開いた。反射的に、ヒュッと短く息を飲み込んでしまう。


 何だよ、それ。何言ってんだよ、章介。何で…。


「…何で。何でお前が謝んだよ!!」


 気が付いたら、俺は覆い被さってきていた章介の身体をぎゅうっと強く抱きしめていた。背中に手を回した瞬間、ぐちゅっとした感触と音がしたけれど、もうそれにも恐れを感じなかった。だって、だってこいつは。


「悪いのは俺だろ!奈津美との事、何も言わなかった!そのくせ、お前をだますような真似して、挙げ句の果てにはもう面倒くさいとまで思ってた!!」


 それなのに、こいつは。俺の親友は。こんな姿になってまで、自分の言った事を気にして。ただ一言謝ろうと思って、俺を追いかけてきてくれたんだ。


 何で。何でこんなにいい奴なんだ。何でこんなに優しい奴が、死ななくちゃいけなかったんだ…!

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