第110話
ずるっ、びちゃ、ぐちゅ、ずるっ…。
「え…?」
思わず振り返ってしまった。角を曲がってしまったから、元の道は見えないっていうのに。
だって、そうだろ。あの音は追いかけてくるのに、さっきまで聞こえていたはずの上岡さんの声が、全然…。
「か、上岡さ…」
俺は引き返そうと、身体の向きを戻す。もしかしたら、上岡さんの身に何かあったのかもしれない。だったら俺のせいだ。助けないと。そもそも、元は俺と章介の問題なんだ。上岡さんは最初から関係なかったじゃないか。だから、やめろ。やめてくれよ。
そう、思った時だった。
「アウゥ…!」
短い呻き声と共に、曲がり角の足元にべちゃっという水音が跳ねる。苦しげに曲げられた五本の指が、アスファルトを掴む勢いで突然現れた。
「じゅ…、やぁ…!」
その次に見えたのは、章介の頭だった。さっきは俺の事を見上げていたけど、今はやっぱり苦しそうに顔を地面の方に伏せていて、ひゅうひゅうと息の漏れる音までさせている。腰の所から見える内臓は、ますますどす黒く変色していた。
「し、章介…」
屈む事ができない俺は、空いている左手をそっと章介の方に伸ばしていた。
章介が苦しそうな息を吐いている。つらそうに俺の名前を呼んでいる。そんな姿を見て、とても放っておけなかった。
あの時、俺は章介を助ける事ができなかった。怒らせて、仲違いをして、あの瞬間席を立たせてしまったばかりに…。
「うん。大丈夫だ、章介。今すぐ病院に行こう」
もしかしたら、なんて思ってしまった。
もしかしたら、章介はまだ生きていて今から病院に行けば助かるかもしれないなんて。ワンチャンあるんじゃないかって思ってしまった。そう思ったら、上岡さんの忠告どころかその存在さえもすっかり忘れてしまって。
「頑張れ、もうちょっとだから」
今度は助ける、絶対に。その後で、あの時の事を謝るんだ。奈津美の事、だまっててごめんなって。ひどい言い方して、ごめんなって。
「章介」
章介の手が、伸びてくる。相変わらず顔は伏せたまま。それでも構わず、俺はその伸ばされてきた手をしっかりと掴んだ。
ずいぶんと、冷たい手だった。あんなにすさまじい炎と煙に巻かれていたっていうのに、人の体温が全く感じられない氷のような冷たさ。血の通っていない感触がそこにあった。
「え…」
つい、びくりと震えてしまい、せっかく掴んだ章介の手を反射的に離しそうになった。だが。
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