第109話

「なっ、ちょっと…!」


 ふいに突き飛ばされて、思わず左手の方の松葉杖を手放してしまった。そのまま松葉杖の片方はカラカランと音を立ててアスファルトの隅の方へと転がっていく。


 もう片方だけじゃうまく身体が動かせないし、何より足元に落ちた物を屈んで取るという行為は、今の俺にはひどく難しい。


 いきなり何するんだと文句を言う為、俺は再び上岡さんのいる方を向こうとして…ひどく後悔した。


「やめろ、行くな!」


 いつの間にか、ゴミ袋のようなものは街灯の下どころか上岡さんの制止する声までもすり抜け、俺のすぐ目の前にいた。どんなに明かりに乏しくて暗いっていっても、これほどまで近くに来られたら嫌でも見えてしまう。何より、長年慣れ親しんだその顔を、俺が分からないはずもなかった。


「しょ、す…」


 ついさっきまで、部屋のベッドで眠っていたはずだった。ものすごくのんきに見えて、まぬけな寝息が聞こえてきそうなほど静かに眠っていたんだ。


 それなのに、何で今ここにいるんだよ章介。あの燃え盛る店の中で見た時と同じように下半身が腰からなくて、内臓が飛び出している状態のままで…!


「ヴゥ…!」


 短くて不気味な唸り声を発しながら、章介が俺を見上げていた。生気が全く感じられない顔色で、限界まで膨れ上がった両目の隙間からは血が溢れて漏れ出ている。そして残った両腕でアスファルトを掻くように這い、少しずつ俺に近付こうとしていた。


 ずるっ、びちゃ、ぐちゅ、ずるっ…。


 飛び出している胃や腸が、アスファルトに擦られていた。さっきから聞こえていたのは、この音だったのか…!


 そう思うと同時に、左足に強い感触が走った。掴まれたと思ったのは、こちらに向かっていた章介の片手が確かに俺の左足首を――。


「う、わああああああっ!」


 みっともないくらいの情けない悲鳴が、俺の口から出てきた。すると、素早い動きで上岡さんが俺の足元に屈んで章介の手を払いのけてくれた。そして。


「行け、逃げろ!」


 そう言って、俺を庇うように前に立ってくれた。


「俺が何とかするから、今はとにかく逃げるんだ」

「え、でも…」

「大丈夫。俺は経験者・・・だから、きっと対応できる」


 何を言ってるんだと思った。掴まれた以上、これは現実だ。俺と上岡さん、二人そろってタチの悪い幻覚を見ている訳じゃない。目の前に、確かにひどい姿になった章介がいて、俺に向かってこようとしてる。

 

 それなのに、何が経験者だよ。何の根拠があって、対応できるだなんて…。


「説明はまた今度するから!今はとにかく!」

「あ…」

「行け!!」


 短く怒鳴る上岡さんのその言葉を合図に、俺は背中を向けて動き出した。


 松葉杖が右手の分しかないから、どれだけ焦ってもゆっくりとしか動けない。それでも上岡さんに言われた通り、全力でそこから離れる事に努めた。


「章介君、どういうつもりだ。あの時、君は言ってたじゃないか…!」


 見えてきた道路の角を曲がろうとした直前、そんなふうに話す上岡さんの声が聞こえた。


 何だ、それ。あの時っていったい…。


 ある事が思い出せそうな気がして、頭の奥がチカチカしだす。だが、角を曲がり切ったところでまたあの音が聞こえてきた。

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