第107話

違う、違うと俺も首を横に振る。


 何で、何でこんな事になったんだ?何で上岡さんが、俺に頭を下げてんだよ?悪いのは、全部俺じゃないか。


「上岡さんは、精いっぱいやってくれましたよ」


 一瞬でも早く上岡さんの頭を上げさせたくて、俺はできるだけ穏やかな声が出せるように努力しながら言う。すると上岡さんは少しだけ顔を上げてきて、俺の右足を固めているギプスを見つめてきた。


「痛むか?」

「痛み止めを飲んでいるんで、それほどは」

「できる限りの事はさせてくれ。いずれはリハビリが必要だろ?いずれまた陸上をする為に」

「いいえ、いいんです」


 俺がまた首を横に振ると、上岡さんは「え…」と短い声を出す。聞いての通りだから、それほど驚かれるとは思わなかった。


「俺、陸上やめるんで」

「な、何で…。そこまでひどい怪我なのか?そんな話は聞いてないんだが」

「そういう訳じゃ…。ただ、俺にその資格がないってだけなんです」


 入院中、俺の右足の緊急手術を担当してくれた医者から言われた。全治に半年以上はかかるし、感覚も鈍っているからすっかり元通りという訳にはいかないだろうが、リハビリのメニューをしっかりこなせば、陸上部に戻れるだけの脚力を取り戻す事も決して不可能ではないと。


 だが、俺はそのリハビリをきっぱり断った。普通に歩けるようになれば、もうそれだけでいいと。


「章介をあんな姿にしておいて、俺がまた走るだなんて無理です」


 もう二度と見たくないと思っていたのに、両目のまぶたを閉じただけであの時の章介の姿がありありと浮かんでくる。


 全くムダがないばかりか、弾力性のあるきれいな筋肉で形作られていた章介の両足。その両足で、たくさんのレースをものにしてきた。なのに、それが腰から無残に消し飛ばされ、挙げ句内臓が飛び出していた。どれだけ痛くて、苦しい思いをしたのか、たかだか骨を少し削られただけの俺が想像すらしていいはずもない。


「何で、誰も俺を責めないんだよ…」

「遠藤君…」

「俺は、被害者なんかじゃない。章介を死なせた加害者なんだ。それなのに章子さんは怒らないし、マスコミは俺を可哀想扱いする。違うんだって、そうじゃないんだよ…」

「遠藤君、落ち着いて」


 上岡さんがずいっと近付いてきて、俺の肩にそっと手を乗せた。


「きっと、杉田君はそんな事思ってない」

「気休めはいいです」

「いや、気休めじゃない」

「じゃあ、どういうつもりですか?上岡さんは、あの時の章介しか知らないじゃないですか」


 嫌味のつもりで言った訳じゃなかった。少なくとも、長年一緒に過ごしてきた俺の方が、ずっと章介の事を知っている。だから、あの数分でしか出会えなかった上岡さんに、章介のあれこれを知っているはずがないのにという正論のつもりだった。


 でも、さすがにこの言い方はない。しまったと思ったが、上岡さんは気を悪くした様子も見せず、「だって、あの時杉田君は」と話を続けようとしてくれた。


 だが。


 べちゃ…。


 ふいに、何かの液体が落ちるような音が、どこかから聞こえてきた。

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