第106話

考える事に意識を持っていかれてたせいか、俺の耳はすっかり役立たずになってたみたいだった。こんなにすぐ近くまで近付いてきていた人の足音や荒い息遣い、そして何より俺を呼ぶ声に気が付かないだなんて。


「き、君…!えっと、遠藤えんどう淳也君!」


 フルネームまで呼ばれた事で、俺はようやく振り返る事ができた。


 そこにいたのは、一人の男だった。三十代くらいで、ものすごくガタイがいい。夜道の中、背後からそんな男に声をかけられても俺が驚いたり、ましてやビビったりせずに済んだのは、その声に聞き覚えがあったからだった。


「あの時の、消防士さんですか…?」


 確か章子さん、この人の事を上岡さんって…。でも、俺より先に帰ったって言ってなかったか?


 男――上岡さんは、ぜいぜいと大きく息を切らしていた。たぶん、俺の後を追いかける為にここまで必死に走ってきたんだろう。まだ六月だっていうのに、頬のあたりまで大粒の汗を幾筋も流していた。


「あ、ああ…。よかった、大丈夫だったか…」


 何とか息を整えようと、上岡さんはゆっくりと深呼吸をする。大丈夫だったかという言葉が気になったけど、きっと自分のようにマスコミに追いかけ回されているのではないかと心配してくれていたんだろうと、勝手に解釈した。


「え、はい。俺は大丈夫ですけど」

「そうか。じゃあ、俺だけなんだな…」


 小さな声で「本当によかった」と呟いた彼に、俺はいたたまれない気持ちになった。さっき、マスコミの奴らの一人が言ってたじゃないか。この人が、章介を見殺しにしたんじゃないかって。


 この人は、きっと苦しんでる。章介を救えなかった事を、そして俺があの時責めるような事を口走った事で…。


「…上岡さん。あの時は、本当にすみませんでした」


 俺は、上岡さんが次に何かを言ってくる前に、深く頭を下げた。松葉杖を掴む両手に、知らず力がこもる。


「今なら、分かるんです。上岡さんのあの判断がなかったら、三人とも炎に巻かれて助からなかったって。上岡さんが正しかったんだって」

「え…」

「それなのに俺、章介も助けろよって上岡さんにひどい事を。自分じゃ何にもできないくせに、上岡さん任せにしようとしてたくせに、あんな…」

「いや、違う。あれは俺達の責任だ」


 まだまだ言いたい事があったのに。とにかく、上岡さんは何も悪くないって事をこれでもかというくらい伝えたかったのに、彼はしっかりと首を横に振って全部否定した。


「あの時、俺達の初動は大きく遅れていたんだ。あと数分早く現着できていれば、きっと誰も死ななかった。君の友達だって…」


 本当に申し訳なかった。


 そう言って、今度は上岡さんが頭を下げてきた。

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