第104話




「今でも、信じられないんだ」


 章子さんの背中に向かって、俺は呟くように言った。


「だって、あの時章介はまだ」

「いいのよ、無理に言わなくて」


 ずずっと鼻を啜る音が聞こえたと思ったら、章子さんがちらりと肩越しに振り返ってきた。拭いきれなかった涙の筋が頬を通っていたけど、俺はそれに気付かないふりをする。ポケットの中にある真新しいハンカチはとても出せなかった。


「さっきも言ったでしょ?事故の原因が分かったところで、だから何って」


 章子さんが言った。


「もう気にやまないのよ、淳也君。あれは事故で、淳也君が悪い訳じゃないんだから。もちろん上岡さんも」

「上岡さん…?」

「章介を連れ出してくれた消防士さん。少し前に、弔問に来てくれてたの。まあ、あの通りマスコミがいたから十分もいられなかったんだけど」


 俺は、あの時の事をゆっくりと思い出した。


 俺は意識を失う直前、確かに見たんだ。悔しげに、悲しそうに叫んだ後、仲間が止めるのも聞かずに再び『natural』に飛び込んでいった大きな背中を。


 何て勇敢な人だと思った。今なら少しだけ冷静になって思い出せるけど、あの状況で俺と章介、二人同時に助け出すのはどう考えても無理だった。おまけに、あの時の章介の断末魔は、消防士の耳にだってしっかり届いていたはずだ。


 それなのに、あきらめずに炎の中に飛び込んでいってくれた。そして、すぐに章介を連れ出してきてくれたんだ。だから俺は安心して、意識を手放す事ができたのに。


「嘘みたいだ」


 俺は章介の顔を見下ろす。何度だって思うが、本当にただのんきに寝ているように見える。


「これが、章介の死体だなんて」


 章子さんの事を気遣うのも忘れて、俺は言葉を続けた。


「同じ席に一緒にいたのに。ただ、立っていたか座っていたかの違いだけだったのに。俺があの店にこいつを行かせたから。俺があの時、こいつを怒らせたから」

「淳也君」

「何でだよ」


 本当に、何でだと思う。どうしてこんな事になった。何で、章介が。何で、俺が。


 胸の中で、いろんな感情がごちゃ混ぜになっていく。自分一人だけ生き残って悔しいのか、悲しいのか、腹立たしいのか、それともほっとしてるのか…。もう、何も分からない。ただ一つ分かるとしたら、これは俺のせいでもあるという事だ。


 きっと章子さんは、誰も責めない。誰も憎まない。悲しみは消えないだろうけど、そんな負の感情を誰にもぶつける事なく生きていく。でも、俺は。


「何で…」


 その先を言おうとしたら、章子さんに抱き留められて言葉が詰まってしまった。松葉杖を抱えたままの俺は身じろぎさえできず、章子さんが離してくれるまで押し黙るしかなかった。

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