第96話

昼を少し回った頃になって、俺はようやく喫茶店『natural』に辿り着く事ができた。


 あの後、表彰台のてっぺんに悠々と立った章介は、非常に素早い動きで市営運動場を後にした。先輩達の「打ち上げにマックでも行こう」という誘いに首を横に振りながら、「すっげえ大事な用があるんで!」なんて言ってる様は、本当に幸せそうだった。


 俺はこれから、その幸せを粉々に踏み砕く。そう思いながらスマホの液晶画面を覗くと、奈津美からLINEメッセージが届いていた。


『大丈夫?』


 俺はすぐに返信した。


『大丈夫。俺がきっちり言っておく。奈津美は来るなよ』


 スマホをポケットに戻して、『natural』の入り口ドアを開く。キンコンキンコンと小気味いいベルの音と共に、店内の爽やかな空気が俺を出迎えた。


 近所という事もあって、たまに母親がお茶を飲みに来る事があったらしいが、俺は来るのは初めてだった。何でもオーナーが脱サラをして始めたらしく、夫婦二人三脚で頑張っているそうだ。コーヒーも紅茶もケーキもものすごくおいしいと、母親が言っていたのを覚えている。


 落ち着きのある茶色に統一された内装の店内はとてもシックで、なかなかにいい雰囲気だった。カウンター席が五つほどあり、コの字の形の店の窓に沿うようにボックス席が並んでいる。天井から伸びているいくつかの照明は眩し過ぎるという事もなく、温かみのある光が店内を照らしていた。


「あ、いらっしゃい。お一人ですか?」


 俺が入ってきた事に気付いた中年の男の人が、カウンターの中から声をかけてくる。たぶん、この人がオーナーだ。その隣には奥さんだろう女の人がいて、カウンターを挟んだ目の前の席にいるきれいな若いお姉さんと話し込んでいた。


「えっ!?木嶋さんに呼び出されたの、ここに!?」

「はい。だから、もしかしたらあり得るかもです。その、プロポーズ…とか?」

「きゃあ、おめでとう!」

「ヤダ、まだ分かんないですよ奥さん。普通のデートかもしれないし」

「そう思ってないって事は、いつもと違うお化粧で分かるわよぉ!もう美香ちゃんったら!」


 何だか幸せそうな会話が聞こえてくる。こっちはこれから友情とか信頼とかをぶち壊す話をしなくちゃいけないってのにいい気なもんだななんて、八つ当たりな事を思ってしまう。俺は声をかけてきた男の人に、「いや、違います…」と答えた。


「俺と同い年くらいの奴、来てませんか…?」

「ああ、お連れさんいるの?じゃあ、あの子かな?」


 そう言って、オーナーが一つのボックス席の方を指差す。


 そこは窓ぎわに沿っているものから、たった一つだけ離れている席だった。店の真ん中あたりにぽつんとある感じで、カウンター席側に向かって仕切りのようなレンガ式の衝立ついたてが付いている。そんな席に、章介は座っていた。のんきにハムサンドなんか食べながら。

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