第82話
そして。
「…行ってしまうのか、きみえ?」
廊下の壁に寄りかかるようにした後で杖を手放すと、おじいちゃんは手話を綴り出した。その目をあたしなんか見ていない。廊下の奥にいるおばあちゃんを見てる。
「え…?」
始めは、そんなおじいちゃんの行動の意味を飲み込めなかった。さらに混乱がひどくなっちゃったんだろうかと思ったけど、何の迷いもなく綴っていく手話のきれいな動きに、あたしはやっと気付く事ができた。
あたしは本当に間抜けだ。すっかりだまされてた。おじいちゃんは、混乱なんかしていなかった。
ただ、受け入れられなかっただけだ。あたしと一緒だったんだ。今日も明日も明後日も、これから先もずっとおばあちゃんは自分のすぐ側にいるものだと信じていたんだ。
それがあの日、急に壊れた。何の心構えもする間もなく、目の前でおばあちゃんはいなくなった。守る事さえできなくて。
そんな自分が許せなかったんじゃないかな。そんな現実を認めたくなかったんじゃないかな。だから、あたしをおばあちゃんに見立てて現実逃避してたんじゃないかな…。
あたしのこの考えは、あながち的外れなんかじゃないだろう。だって、ほら。
「きみえ」
今の姿を見せたくないと言ったおばあちゃんは、決して返事をしようとしなかった。息遣いの音さえ潜めて、必死に気配を消そうとしてるみたいで。
そんなおばあちゃんに、おじいちゃんはとても優しい声色で話しかける。ゆっくりと、そして気持ちをたっぷり込めた手話を交えて。
「…俺と、付き合って下さい」
その言葉には覚えがあった。おばあちゃんに聞かされたノロケ話にも出てきたし、おじいちゃんの布団に挟まっていた紙切れにも書かれたあった大事な言葉だ。
「生まれ変わっても、また俺と付き合って下さい」
おじいちゃんの両目から、静かに涙が流れる。廊下が暗い上に、涙のせいでおばあちゃんの姿は全く見えていないだろうけど、おじいちゃんは何度も同じ言葉を手話で繰り返した。
…ヴォォォ~…。
やがて、暗闇の向こうからおばあちゃんの息遣いの音が一つ聞こえてきた。恐ろしさなんてこれっぽっちも感じられないくらい、とても優しい音だった。
そして、暗闇の中から、おばあちゃんの真っ黒焦げの右手だけが伸ばされてきて、返事の指文字が綴られてきた。
『わ』『た』『し』『し』『あ』『わ』『せ』『も』『の』『で』『す』『ね』
それが、最後だった。
再び、廊下を後ずさっていく足音が聞こえだす。あたしはもう止める事なんかできず、やがて何も聞こえなくなるまで、おじいちゃんと二人その場に立ち尽くしていた。
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