第62話



『安西正之助』

『安西正之助』

『安西正之助』


 警察署からの帰り道、あたし達家族はすぐにおじいちゃんの入院している病院へと向かった。


 頭を強く打ったという事で一時はICUに入っていたけど、おじいちゃんはすぐに意識を取り戻してくれたという。でも、一般病棟の個室に移されていたおじいちゃんは、どこかおかしくなっていた。


「…俺の名前は、安西正之助だ。俺の名前は、安西正之助だ…」


 家族ならもう分かり切っている、他の誰でもないおじいちゃん自身の名前。それを看護師さんが持ってきた紙切れに延々と書き殴っては、ベッドの下に放り捨てている。


 どれだけ長い時間、そうしていたんだろう。もうベッドの下は紙の山でこんもりとしていた。それを片付けてくれている看護師さんに、お父さんが申し訳なさそうに頭を下げた。


「すみません、父がとんだご迷惑を…。先ほど担当の先生から聞いてはきましたが、やはり父は…」

「はい。事故のショックで、少し記憶の混乱が見られます」


 個室に来る前に、家族皆でおじいちゃんの容体を担当医から聞いた。命に関わるような怪我こそしなかったものの、頭を打った事とおばあちゃんをすぐ目の前で亡くしたという事故のショックで、一時的な錯乱状態に陥っていると。


 つい、あたしは「それって、ボケちゃったって事なの?」なんて言ってしまったけど、担当医は静かに首を横に振ってくれた。


「脳に異常は見られませんでしたので、精神的ショックによるものだと思われます。ゆっくりご静養されれば徐々に回復していくでしょう。移動も車イスなら大丈夫ですよ」


 担当医のそんな言葉を思い出しながら、あたしはおじいちゃんを見つめた。


 紙の一面いっぱいに自分の名前を書いて、それをぽいっと放り捨てるおじいちゃん。まるでオモチャに飽きて放り投げる小さな子供みたい。


 きっと、お父さんもお母さんも同じ思いをしているに違いない。


 今、おじいちゃんは何を思い出して、こんな事を繰り返しているんだろう。誰に向かって、自己紹介なんてしてるのかな…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る