第58話
「…ぁ、あい!」
学校で訓練して、声が出せるようにはなったものの、おばあちゃんの言葉はきちんとした発音にならない。
それ自体は仕方ない事だし、おそらく一生できないだろうとおばあちゃんもおばあちゃんの両親も覚悟はできていた。その覚悟をすっかり忘れて、おばあちゃんはおじいちゃんに話しかけ続けた。
「…こ、こひょ、ま、ひぇはあ…あ、ひぁと、ぎょ…まえた!こぉえ、おひゃえ…えふ!」
この前はありがとうございました!これ、お礼です!
この一週間、何度も練習してきたお礼の言葉。
発音は全くダメだろうが、それでも感謝の気持ちだけはきちんと正しく伝わっていてほしい。
そう思いながら、おそるおそるおじいちゃんの顔を見るおばあちゃん。
そしたら、おじいちゃんは、これまでおばあちゃんが出会ってきた大多数の人達と全く同じ反応を見せていた。
まあ、分かりやすく一言で言えば、「この人、何言ってんの?」と言いたげな顔だったという。
確かにおばあちゃんは、今でも二、三歳児みたいに舌が回らないし、くぐもった声色だから余計に分かりにくくて、声だけだとその意図がうまく伝わらない事が本当に多い。
だから、おばあちゃんのそんな声を初めて聞いたその時のおじいちゃんは、首をかしげたままで、おばあちゃんが差し出してきた紙袋をなかなか受け取ろうとしなかった。
「えっと…今、何だって?」
失礼だとも思ったが、意味も意図も分からない以上は、もう一回聞き直す必要があると考え直したおじいちゃんだったけど、二回目も同じように返されて、ますます困惑した。
おばあちゃんが集団就職でやってきた事を知っていたおじいちゃんは、地方独特の方言か何かだと思ったようだった。でも、おばあちゃんはその方言すら知らない。話せない。聞く事すらできない。
だから、そう聞いてきたおじいちゃんに、おばあちゃんは首を横に緩く振ってから、再び紙袋を差し出す。そして。
「…あい!あひゃとう!」
おじいちゃんは、今度は素直に、そしてゆっくりと紙袋を受け取った。中からふんわりと漂ってくる甘い匂いに、おじいちゃんは好物のカステラじゃないかと、おばあちゃんがトラックの前からいなくなってから気が付いた。
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