第52話

「あちらの方になります」


 それから二十歩も歩かないうちだった。婦人警官に言われて、パッと正面を見据えてみれば、さっきと似たようなドアに向かい合うようにして、お母さんがしゃがみこんでいるのが見えた。


 お母さんは、ひどく顔色が悪かった。普段は化粧とか身だしなみとかきちんとする人なのに、すっぴんの上にヨレヨレの服を着ている。目元はすっかり腫れ上がっていて、口元に白いハンカチを押し当てていた。


「お母さん」


 婦人警官に会釈してから、あたしはお母さんに声をかける。それで初めてあたしが来た事に気付いたらしいお母さんは、「カナ…」と弱々しい声であたしの名前を呼んだ。


「カナ、カナ…!」

「お母さん、お父さんは?おじいちゃんはどうなったの?」

「おじいちゃんは、病院…。頭に怪我をしちゃって…」

「お父さんは?」

「……」


 お母さんはそこで押し黙っちゃったけど、ゆっくりとハンカチを持っていなかった方の手でドアの方を指差した。


 ドアの方から、何だかものすごく冷たい空気みたいなものが溢れ出してるような気がした。お葬式とか出た事もないあたしにとって、この霊安室とかいう狭い空間はもう未知の存在っていうか。それこそ、一生縁がないものと思ってたのに。


「…お、お父さん?」


 ドアノブに触れるのも何だか嫌で、あたしはドアの前で声をかける。すぐにお父さんの返事が聞こえてきた。


「カナか、来てくれたんだな」

「う、うん…。あのさ…」

「何だ?」


 お父さんの声も、暗くて沈んでいる。お父さんは、おじいちゃんとおばあちゃんの一人息子なんだから、そうなるのも当たり前だよね…。


「お、おばあちゃんは…?」


 さっきよりも緊張感が走る。今なら、まだ間に合う。「間違いでした」とか「知らない人でした」とか言っていいタイミングだよ、お父さん。


 それなのに、お父さんの返事はこの通りだった。


「…いるよ。おばあちゃんは、ここにいる」

「嘘っ…」

「嘘なんかじゃないよ、会わせてあげられないけどな」

「……」

「何でだ…?何で顔がないんだよ、母さんっ…!」


 お父さんのそんな声が聞こえたと思ったら、どんっと鈍く響く物音がドアの向こうから響いてきた。


 たぶん、お父さんが壁か何かを殴っているんだろう。断続的に続くその物音は、お父さんの悲しみと悔しさの象徴なんだ。


 じゃあ、あたしは?おばあちゃんに会わせてもらえないあたしは、どんな感情を剥き出しにすればいいの?

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