第32話

親友の話は、一日ほど前まで遡る。


 この日、彼は再びこっちの方に出張になり、その仕事帰りにまた僕に会いたいと思ってくれたらしい。


 前に会った時、つまり六月十二日に会ってたらふく深酒をした際、「今度会った時は僕のマンションで宅飲みしよう。住所と電話番号を教えておくから」などと言って、僕は彼にそれらを殴り書きした紙を手渡した。


 だが、泥酔状態で書いた文字などまともに判読できるものじゃない。案の定、途中からミミズの絵になってしまっていたらしく、特に電話番号など全く読めなかったという。


 それでも何とか住所の途中までは分かったので、彼は地元の地酒一升瓶を手土産に、夜の七時過ぎに僕のマンションの前まで来る事ができた。


 連絡の一つも入れられなかったが、平日のこの時間なら家にいるだろうと踏み、彼はマンションのエレベーターに乗ろうとした。だがその時、あくまで避難用として設置されていて、平時は全く使用する事のないエレベーター横のらせん階段から、カツン、カツンと誰かが下りてくる足音が聞こえてきたそうだ。


「小さいマンションだし、たもちゃんの部屋を知ってるかもしれないと思ったからさ」


 そう思った親友は、やがてエレベーターのすぐ横まで下りてきた一人の女に声をかけた。


 やたらと身体つきが小さくて、うつむき加減でいた為、顔はよく見えなかったそうだ。そして何より、右腕を隠すようにして歩いていたという。


「あの、すみません。このマンションに木嶋保って人が住んでると思うんですけど」

「…たもちゃんの、お友達…?」


 女はやたらゆっくりとした口調、そして寒々しい声色で答えてきた。親友はぞくりと背中に冷たいものを感じながら、「そ、そうですけど」と答えたら。


「202号室よ、早く行って。私じゃ助けられない、たもちゃんを連れていってしまいたくなる…」


 そう言って、親友の横をすうっと通り過ぎたという。何を言ってるんだろうと思って、後を追うように振り返ったが、そのほんのわずかな間に女の姿は見えなくなった。


「急に気味悪くなってさ。たもちゃんに何かあったんじゃないかと思って、階段を駆け上がったよ。部屋の前に着いたらドアは開けっぱなしで、絶対ただ事じゃないって思った。それで入ってみたら、たもちゃんが部屋の真ん中でぶっ倒れてたから驚いたよ」


 そこから親友の行動は早かった。すぐに救急車を呼んでくれて、救急隊員が来るまでにいわゆる応急処置をしてくれたそうだが…。


「まさか、お、前…。じ、じん、人工こ、きゅう…」

「安心しろ、たもちゃん!舌までは入れてない!あとレモンの味じゃなくて、酒の味しかしなかった!」


 そう言ってサムズアップしてきた親友を殴る元気も、ましてや酸素マスクを外してまで唇を拭う余力も僕にはなかった。

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