第29話
美香が死んだとはっきり分かったあの日から、何の役目も果たせなくなった紺色のリングケース。処分するにも忍びなかったが、二度と手に触れたくなくて置き時計の後ろに隠していた。
カチカチと、相変わらず秒針の音がうるさい。僕は置き時計の背面に位置していたスイッチを切って、その秒針を止める。ついでに、点けっぱなしだったテレビの電源も切った。
そうしただけで、部屋の中の空気は張り詰めたかのようにしんと静まり返った。窓の外からは小鳥のさえずりすら聞こえてこない。ありきたりだが、まるでこの世界に僕と美香しかいないような気さえしてきた。
本当ならあの日、僕は『natural』で美香と落ち合ってたはずだった。
きっと恥ずかしがるだろうから、どこか二人きりになれるような場所で事を済ましたかったが、美香の言う通り、マスターと奥さんが見届けてくれるつもりだったのなら、それもよかったかもしれない。
僕は、頭の中で「ここは『natural』だ」と思い描いた。
幼馴染みの親友と飲み過ぎたせいで、ちょっとばかり遅刻してしまった僕。慌てて『natural』の扉をくぐり抜ければ、何人かのお客さんがいる中、美香はカウンター席に座ってマスターや奥さんと談笑している。
ゼイゼイと息を切らす僕の大げさな呼吸音に気付いて、美香がこちらを振り返る。美香は「たもちゃん、遅い~!」なんて頬を膨らませるし、マスターや奥さんはそれを見て、夫婦そろって苦笑を浮かばせたりするんだ。
僕は両手を併せながら「ごめんって!」とか何とか言って、必死で許しを乞うんだ。アイスコーヒーおごるからとまで言って、マスターに二人分注文する。
そうやって、アイスコーヒーができるまでの間に、僕はまだちょっとふてくされてる美香をまっすぐ見据えて、ポケットの中のリングケースを掴み取る。
「大事な話があるんだ」
僕のその言葉を待っていたかのように、ぴくりと身体を震わせる美香。同時にマスターや奥さんは息を詰め、一切の物音を立てないように見守る。
自分の心臓の音が耳の奥でにぶくやかましく鳴っているのを少しだけ煩わしく思いつつも、僕は手のひらの中のリングケースを、ゆっくりとこっちに振り返ってきた美香の目線の高さに持ち上げて、そして――。
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