第15話

「たもちゃん、どうしたの?」


 その場で固まったまま、味噌汁を運ぼうとしない僕が不思議で仕方ないのか、美香はこてんと首をかしげながら聞いてきた。


 その頬には、あの日にできてしまった切り傷を隠しているだけのガーゼが確かに貼られている。そして、やっぱり右腕がない。


 それなのに、美香は美香のままだ。


 ほんの少し前、世の中はゾンビブームだった。理性や知能をなくした上、全身が腐り果てたゾンビが人間の血肉を求めて徘徊するなんてシーンは、映画やゲームでこれでもかというくらい見てきた。


 もし美香がそんな奴らと同じような姿で、似たような行動を取っていたのならば、僕はいとも簡単にパニックになり、美香に背中を向けていたかもしれない。


 でも、ここにいる美香は違っていた。右腕がない事以外、僕の知っている美香そのものであり、何も変わっていないんだ。何も…。


 それに対して、恐ろしいとは微塵も思わなかった。


 この状況はおかしいと頭のどこかでは思っているのに、僕の心はそれを受け付けない。


 美香が帰ってきた。美香が戻ってきてくれた。今、僕の目の前には確かに美香がいる。その一点だけが僕の脳を完全に支配して、喜びという感情で埋め尽くしていた。


「…あ、ごめんごめん。すぐやるよ、ありがとうな」


 そう言いながら調理台の脇に置かれた椀を取ろうと片手を伸ばすと、先に美香の左手がそれを取った。そして、そっと僕に椀を乗せた左の手のひらを差し出すと「気を付けて運んでね」と微笑んでくれた。


 この気遣いを見せる微笑みも変わっていない。『natural』で働いていた時も、淹れたてのコーヒーカップを置くたびにそう言って笑っていたっけ。


 僕はいつもと同じように美香から椀を受け取った。その際、指先で触れた彼女の右手が異常なまでに冷たいと分かっても、やはり恐ろしさを感じる事はできなかった。


「いただきます」


 すぐにダイニングテーブルの前の椅子に腰かけ、味噌汁を一口すすった。温かくて程よい味噌のコクが、また嬉しかった。

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