第6話

六月十三日という日付を、僕はたぶん一生忘れられないと思う。


 二日酔いでガンガン痛む頭でも、目の前で起こっている状況を理解できないはずがなかった。


 目に見えるのは、赤く大きな炎。耳に届くのは野次馬の悲鳴。そして、鼻孔を支配していたのは『naturalナチュラル』とそこにいた人々が燃えていくひどい臭いだった。


 いったい、どうしてこんな事に。ここは僕の行きつけの喫茶店で、美香と初めて会った思い出の場所だったはずだ。


 初めてこの店に来たのは、二年前。僕が社会人一年目の年の事だった。


 ある中小企業の営業課に配属された新入社員への洗礼というべきか、なかなか定められた営業ノルマを達成する事ができず、休憩しようと立ち寄ったのが『natural』で。そこでウエイトレスのバイトをしていたのが、美香だった。


 最初は、会話など全くなかった。


「いらっしゃいませ」

「ご注文は何にされますか?」

「コーヒーお待たせしました、ごゆっくりどうぞ」

「ありがとうございました。お会計三百五十円になります」

「またお越し下さいませ」


 彼女はこの五パターンの接客マニュアル語しか話さなかったし、僕も別にナンパやセクハラがしたい訳じゃなかったから、無難で必要最低限の言葉しか発さなかった。


 ただ、とても笑顔のよく似合うかわいい子だとは思っていた。


 彼女も必要以上の事を話しはしなかったものの、来店してくる全ての客に欠かさず満面の笑みを見せては出迎え、見送っていた。それがシックな造りの店の内装によく映えていて、いつの間にか僕はコーヒーを飲みつつ、そんな彼女の笑顔をちらちらと盗み見するようになっていた。


 初めてまともな会話をしたのは、『natural』に足を運ぶようになって十回目の頃。その日は店に入ったとたんに小雨が降り出してきて、窓際の席で僕が途方にくれていた時、美香が自分のコウモリ傘を貸してくれた。


「よかったら使って下さい。まだお仕事あるんでしょ?頑張って下さいね」


 余計な話をしない代わりに、美香は客の一人一人をよく見ていた。


 僕みたいにサボりを決め込むサラリーマン、少ない小遣いで些細なメニューを頼んでくる高校生、ゆったりと時間を過ごしている老夫婦など、この店にはいろんな人間がいた。美香はそんな人々をよく観察して、どう気持ちよく過ごしてもらおうかと心静かに考える事ができる優しい人だった。


 そんな彼女がいるはずの『natural』が燃えている。僕は、気がおかしくなりそうだった。

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