第50話

それは、午後三時を少し回った頃の事だった。


 この日は珍しく預かっていた子供達が全員早めのお迎えとなって、皆上機嫌で帰って行った。久々に早上がりとなった俺も解放感この上なく、ううんを大きく背伸びをしてから、一度自室に戻ろうと玄関をくぐる。そこで、昨夜から帰ってきているジジイと鉢合わせとなった。


「おお、優太。今日もお疲れさんじゃったの」

「……今日は、誰も呼んでないよな?」

「もちろんじゃとも。ワシも今日くらいは、のんびり一人で晩酌を楽しみたいからのう」


 そう言って、ケラケラと笑うジジイ。どの口がのたまいやがるとキレそうになる。うちを子供達の為の託児所だけじゃなく、他のあやかしの子孫達のお悩み相談室まで定義付けようとしてるくせに!


 ……全く。何で先祖の綾ヶ瀬公麿は、もうちょっとちゃんとした契約書っていうか、託児所に関する取り決めを作らなかったんだ? 面倒を見るのは、あくまで六歳までの「どちらとも呼べる子供」だけって、千年前にしっかり約束するべきだっただろ。


 肖像画すらなく、古文書に何度か名前が載っているだけでしか知る事のない先祖に腹を立てても仕方ないってのは分かってるけど、もし直接会う事ができるんなら、言ってやりたい事が腐るほどあるっていうのに……。


 そんな事を思いながら、玄関から少し離れた二階への階段に向かって足を進める。そんな俺を不思議に思ったのか、ジジイが「優太?」と声をかけてきた。


「どうした、今からワシの酒に付き合わんか?」

「嫌だね。俺は晩メシまで仮眠する」

「え~? じゃあ、仕方ないの。健吾でも誘うか」

「親父は病み上がりなんだから、そんなに飲ませんなっ……」


 その時だった。ゆっくりと閉じようとしていた玄関の向こうから、突然、これまで生きてきた中で一度も経験した事のない気配が襲いかかってきた。


 ジジイが変化を解く時に見せる異能力の波によるものでもなければ、瞬間移動の護符によるつむじ風のものでもない。何だかものすごく重苦しくて、田舎特有の澄んだ空気を一気に淀んだ味に変えてしまうような苦しさまである。ずしりと、全身が重くなったような気がした。


「こ、これはっ……!」


 その場で四つん這いになってしまった俺を見て、ジジイがそれこそ珍しく焦る。ひょうひょうとしていて、自由気ままを謳歌しているジジイのこんな声を俺は初めて聞いた。ジジイは懐から何かの護符を四枚取り出すと、それにふうっと息を吹きかけた。


「結界護符よ! 綾ヶ瀬家の東西南北の位置に陣取り、守護の力を示せ!」


 ジジイの命令に応えるように、四枚の護符はそれぞれが東西南北に別れて飛んでいき、柱や台所の窓、壁などに貼っていく。すると、あんなに重苦しかった気配が一気に激減して、全身の重さが嘘のように消え去った。


「な、何だったんだ、今の……」

「……」

「ジジイ?」


 ジジイは何も言わず、ほとんど閉じられてしまった玄関をじっとにらみつけている。後頭部に、一筋の汗が流れていた。


 あやかしの総大将だった奴が何をこんなに警戒してるんだと思ったのと、玄関のドアがトントントンとノックされたのは同時だった。

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