第53話

「……五分? 新藤先生、今日はずいぶんとサービスしてくれるんですね?」


 寝起き特有の掠れた声だったけど、それでもはっきりと隣の席から聞こえてきた。問題集から勢いよく顔を上げてそっちを見たせいで、また頭の重さが増したような気になったけど、それよりも彼の――菊池君のそんな挑発めいた言葉に私だけじゃなくて、クラスの皆も、そして元凶となった新藤先生もずいぶんと驚いていた。


「五分あったら、充分です」


 ううん、と背を伸ばしながらそう言うと、菊池君も机の中にしまっておいた問題集を取り出し、そして一気にページをめくっていった。


 その途端、あんなにうるさく騒いでいた皆の声がぴたりとやみ、代わりに一斉に菊池君の方へと視線が向けられる。菊池君のやっている事は、別に大した事じゃない。問題集のページをめくっている。ただそれだけの、何て事のない日常の様だ。ただ、クラスの皆の、新藤先生の、そして私の目を釘付けにして離さなかった理由を挙げるとするなら、彼の手元のせいだ。


 速いと言うより、適当という言葉が近いと思う。もしくは、流しているといった感じか。とにかく、菊池君の手は流れるような勢いでページをめくっていて、ほんの一瞬たりとも止まろうとしない。そして、パラパラパラッとページの紙が擦れていく音を追っていくかのように、彼の両目もせわしなく動いていた。


 嘘でしょ。もしかして、あれで覚えているつもり? そんなの絶対無理に決まってる。あんな流し読みで、問題集の中身を把握するなんて、そんな事できるはずが――。


「……覚えました」


 最後のページをめくり終えた頼りなさげな音まで、菊池君のそんな言葉と一緒にはっきり聞こえてきたような気がした。それに静かだが大きな圧を感じたのか、新藤先生がほんの少したじろいで何も書かれていない黒板に、どんっと背中をぶつけてしまっていた。


「新藤先生?」

「うっ……」

「小テスト始めて下さい。きちんと問題集の中身を覚えていたら、できるものなんですよね?」

「ぐ、うぅ……」

「さっき言ってた事、守って下さいよ? 俺も本気出しますんで」






 三十分後。新藤先生は絶望しきったような顔を何とか片手の中で隠しながら、それでも信じられないとばかりに「バ、バカなっ……」と呻いた。その様がコメディードラマでよく出てくる無様な小悪党のように見えたらしく、クラス中の失笑を買う羽目になった。


 そして、その状況を作り出した当の本人は、まるでそんな事になど一切興味がないと言わんばかりの様子で、また居眠りを始めていた。ついさっきまで受けていた小テストは、全ての解答欄に赤丸が記された見事な満点だというのに、それを両腕の下に敷いて枕代わりにするくらいののんきぶりで……。

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