第三章

第44話

◇◇◇



 ああ、いけない。肝心な人の事をきちんと皆さんに話しておくのを忘れるところだった。僕と弟の大恩人だっていうのに。


 その、近所に住んでいるお姉さんは、当時大学生だった。ボランティアサークルに所属している二十歳の女性で、月に何度か小学校の近くにある児童公民館に訪れては、仲間と一緒に様々なイベントに参加していた。


 お姉さんと最初に口をきいたのは、弟の方だ。確かあれは、児童公民館でのお菓子作り体験イベントの時だったと思う。お姉さんがクッキーの生地作りに四苦八苦している僕達の隣にたまたま来た事がきっかけだった。


「頑張ってる? 分からない事があったら、いつでも聞いてね?」


 そう言って、薄力粉まみれになっていた僕達の顔を覗き込みながら笑みを浮かべてくれたお姉さん。弟はそんなお姉さんに「あっ!」と声をあげ、生地でべとべとになっていた指で失礼にも指差した。


「僕んちの隣の隣にある、赤い屋根の家のお姉さんだ!」

「えっ!?」

「三日前、夕方の4時35分に帰ってきてたよね? 僕んちの二階の窓から見えたもん。大きなビニール袋を二つ持ってた!ピンク色の服に青色のズボンも着てた!」

「……」

「今日はその時みたいにサラサラに伸ばしてないんだね? どうして結んでるの?」

「どうしてって……クッキー作る時に、邪魔だから?」


 お姉さんはひどく困惑していた。うん、そこはこれまで出会ってきたどの人とも同じような反応だ。むしろ、そうならない人がいるなら見てみたいと僕はこの瞬間までずっと思ってきた。


 弟は、自分の才能の重大さにまだ気付いてなく、かといって自慢する訳でもなく、ただ素直にその通りの事を口走っていた時期だった。そのせいで、大抵の人の反応の続きは、いわゆる「気味悪がるばかり」で、そのたびに弟は傷付いてきた。


 でも、お姉さんは。彼女だけは違った。


「……すごいね。そんな前の事を、こんなにたくさん覚えてお話できるなんて。君って賢いんだね」


 お姉さんはさっきよりもずっと華やかな笑みを浮かべて、弟の頭をきれいな手で撫でてくれた。僕以外の人間に初めて褒められた弟は、ほんの数秒ぽけっとしていたけど、すぐにお姉さんと同じくらい明るく笑った。


「えっへへへ~♪」


 自分の頬に手を当ててもじもじするものだから、弟の顔は薄力粉だけじゃなくて黄土色にも汚れていく。僕はそれを微笑ましく思いながら、もっともっと弟の世界が広がっていってくれますようにと願ったし、今でもそのきっかけを与えてくれたお姉さんに心から感謝してるんだ。



◇◇◇

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