第42話

「ごめん。菊池君をつけてた」

「え?」


 菊池君も杏仁豆腐を食べ始めてたけど、私の自白を聞いてその手がぴたりと止まる。今朝みたいに「キモい」って言われるくらいは覚悟できてたんだけど、それでも菊池君がどんな顔をしてくるかと思うと急に恥ずかしくなって、私はスプーンを持ったままうつむいた。すると。


「何で?」


 また、不思議そうな声が聞こえてきた。思わず顔を上げてみれば、菊池君は私と同じようにスプーンを持ったままでこっちを見つめていた。


「何か俺に用事でもあったのかよ?」

「それは……」


 さすがにどこの塾に通ってて、どんな勉強法をしてるのか探りを入れる為だなんて、すぐにそう言うのははばかられた。いきなりそこまでバカ正直に言ってしまったら、私の価値なんて消えてなくなってしまうと思ったし、本当にそうなったら母に見捨てられるのは確実だとも思った。だから私は必死に今日一日の事を思い出し、まずはもっともらしく聞こえる答えを口に出した。


「……今日の事」

「うん?」

「まだ、お礼とお詫び言ってなかったから」

「お礼とお詫び?」

「そう。お詫びは今朝の事で、お礼は化学の授業の時の事」


 私がそう言うと、菊池君は納得してくれたみたいで「ああ……」とため息混じりに返した後、再び杏仁豆腐を食べ始める。何とかうまくいったと思った私も、残りの杏仁豆腐にスプーンを持つ手を伸ばした。


「まずは今朝の事だけど……勝手に机の中を漁ってごめん」

「ん……」

「あ、あの時言ったのはその場しのぎのごまかしとかじゃなくって、本心だったっていうか……。とにかく、菊池君みたいになりたくて頑張ってるのに、いつも菊池君には勝てなかったから、それで」

「俺も、あの時言ったのは本心だし、変えるつもりは一切ないよ」


 私の言葉を遮った後、「あ、でも」と一度言葉を切った菊池君は、緊張をほぐすかのように少し大きく息を吸い込んだ。


「さすがにバカとかキモいは言い過ぎたって、今は思ってる。お詫びっていうんなら、俺にとって四時間目がそれに当たるんだけど」

「え。じゃあ、あの時教えてくれたのは」

「ささやかなお詫びの印って奴かな」

「そ、そうだったんだ……」

「うん」

「でも、ありがとう。おかげで本当に助かったから」

「言っただろ? たまたま落ちていくところが目に留まったからだって」


 そう言って菊池君は残りの杏仁豆腐を平らげていったが、私は最後のその言葉がどうも引っかかった。


 落ちていくところをたまたま見たからって、そんなのって本当にほんの一瞬の事じゃないの? それこそ、「あっ」って音が口から出るか出ないかくらいの短いの事だろうし、本当に見たとしても、あんなにたくさんの事柄や細かい計算式まで全部くっきり見えるとはとても思えないのに……。


「あ、あの……」


 何を尋ねるつもりか分からないまま、私が口を開こうとした時。スカートのポケットに入れていたままのスマホが鳴った。ぎくりとしながらも慌てて確認してみたら、LINEの通知が一件。母からだった。


『まだ帰らないの?』


 まだ五時になったかならないかの時間なのに。七時までには必ず帰るって言ってるのに。私がそう思うのと、奥のテーブル席のサラリーマンが苦しそうな声で「勘定お願いします……」と言ってきたのは、ほぼ同時だった。


「はい、只今! じゃあな、品川」


 サラリーマンの声に反応した菊池君が、店長さんより素早く動いてレジの方へと向かう。私は急いで杏仁豆腐を平らげてしまうと、忙しそうにレジを打っている菊池君に「それじゃあ……」とだけ言って、再び暖簾をくぐった。


「かわいいお嬢ちゃん、また来てね。サービスするから!」


 その時、店長さんの陽気な声が追いかけてきたけど、私はそれに応える心の余裕もなく、家に向かって一気に駆け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る