第36話

「……一番が酸性で、数値は5。二番と三番は中性、どっちも数値は7」


 駆け寄ってきた大宮先生の後ろから覗き込むようにそう言ってきたのは、菊池君だった。ついさっきまで半分閉じかけている目をこすりながら、隣の班でビーカーを見つめていたはずだったのに。


「え……」

「それで、四番と五番がアルカリ性で、数値は四番が9で五番が8だったよ」

「……」

「何なら、体積の計算式も出そうか? 落ちてるところを見てたから、たぶんできると思うけど」


 何、言ってんだろうと思った。今朝の私とのやり取りなんかすっかり忘れてるふうなのもおかしく思うけど、何て事ないみたいにそう言ってくる菊池君をひたすら変に思った。


「気を遣ってくれてありがとうね、菊池君」


 一方で、大宮先生はその変な発言に全く気付いていないようで、菊池君の方へと体を向き直しながら言った。


「でも、菊池君は自分の班の方をしっかりやって? ここは先生も手伝って片付けるから」

「いや、できます」


 菊池君はきっぱりとそう言い切ると、いつもは一切使おうとしない自分のまっさらなノートを手に取って、その一ページをびりびりと破り取った。そして、机の上のシャーペンを手に取ると、あっという間に私達の班がなくしてしまった体積の計算式を書き殴っていった。


 何、あれ。いったい、何がどうなってるの?


 破り取ったものとはいえ、菊池君がノートのページに何かを書き綴っていく事自体がとても新鮮な事なのに、隣の班であったはずの私達の実験の計算式をこうもあっさりと再現していくなんて……。


 時間にして、一分足らず。誰もが呆然と見守る中、カツッと最後の一文字を書き終えた菊池君がそのノートのページを私に突き出してきた。


「ん。できた」

「……」

「品川?」

「え、あっ……ありがとう」


 慌ててそのノートを受け取り、中身を確認する。少し乱れた文字だったけど、ついさっきまで書き留めようとしていた体積の計算式が完璧に再現されていた。


「気を付けろよな」


 ぼそっとつぶやくようにそう言うと、菊池君は隣の席の班へと戻っていく。あまりにもすごく、そしてあっけないほど簡単にやってのけたものだから、まだ皆、呆然としていたけれど、大宮先生のパンッと両手を打つ音で我に返る事ができた。


「はい、もうすぐ締め切りますよ。提出急いで下さいね~」


 そうだ、レポート。訳が分からないけど、とにかく菊池君がやってくれたんだから最後まで仕上げないと。


 早くレポートを完成させようと清書を急いでいた私は、菊池君にこっそりと耳打ちする大宮先生のこんな言葉に全く気付く事ができなかった。


「……つらくなったら、またいつでも相談に来て? いいんだからね、無理にその才能を使おうとしなくたって」

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