第34話

この日の四時間目は化学だった。化学は移動教室になっていて、校舎とは別に設けられている学習棟の三階に位置している。正直、そこまで行くのはかなり面倒くさかったけど、化学担当の大宮おおみや先生は朗らかで気さくな性格をしていたから人気だったし、私も彼女は嫌いじゃなかった。


 日がな一日寝ている菊池君も、さすがに移動教室を伴う授業の時は目を覚まして席を立つ。大抵、何人かの男子生徒と一緒に移動しているけど、何度も遠慮なしの大きなあくびをしているので「菊池、今のその口なら大食い選手権で勝てるんじゃねえの?」なんてからかわれる様子をよく見かけた。


 今日も軽口を言ってくる男子生徒達に「はいはい……」と適当な返事をしながら、菊池君は廊下を歩いていく。その背中を見つめながら、私は今朝からずっとくすぶっているもやもやを何とか消化しようと必死になっていた。


 今より、もっとよくなりたい。望んだ通りの自分になりたい。できる事なら、今よりもっと優秀な能力を身に付けて、変える事のできなかった現状を打破したい。そして、今よりももっと有意義な日々を満喫したい。


 そう考えるからこそ、自分には持っていない何かを持っている他人を羨む。妬ましく思ってしまう。それが人間ってものなんだろうし、その最たる見本になっているのが、私の母だ。母が持っていなかったものをあの人が持っていたから、父はあの人を選び、そしてもみじちゃんが生まれてきた。


 もしかしたら母は、私を通して、あの人が持っているものを得ようとしているのかもしれない。そうでなければ、母はあれほどまでに変わったりしなかったはずだ。あんなに私を責めて、ヘビのようにまとわりついてくる事すらなかったと思う。


 でも、それも菊池君の目から見れば、きっと間違いなんだろう。もしも本当に、母があの人と同じものを求めているのだとすれば、きっと菊池君は今朝みたいにきっぱりとそう言い切るに違いない。ただの現実逃避で、中二病ばりの妄想なんだろって。


 ……何がそんなにいけないの? そう思う事自体の、いったい何が。誰だって、ああなりたいこうなりたいって思う事くらいあるはずなのに。今朝の私のやりようは最低な行為だったと思うけど、ただ、菊池君みたいになりたかっただけで。菊池君みたいになれれば、きっと母も昔のように笑ってくれるって思ったから。そう信じたかったから――。


「……ねえねえ。今日の体育ってハードル飛びだったっけ?」


 つい立ち止まって自分の思考に耽っていたら、廊下の開けっ放しにされていた窓の向こうから小さくそんな声が聞こえてきた。何気なくそっちに目を向けてみれば、窓の向こうにグラウンドへ伸びる小道が見え、体育の授業に向かう四組の女子達の姿があった。その中には、もちろん雫も。


「あ~あ、いいなあ。門藤さんはいつだって記録はバッチリで」


 女子の一人が、隣にいる雫にそう言っているのがうっすらと聞こえる。それに対して、雫は「そんな事ないよ」と謙遜しているようだったが。


「私も、門藤さんみたいになりたいな。門藤さんみたいにフォームもきれいに決まって、タイムもあと二秒くらい縮めたい!」


 ほら、ここにもいた。菊池君の大っ嫌いな事を口走る子が。スポーツ特待生ばかりの四組に入ってたって、ああやって誰かみたいになりたいって羨む子がいて、それはやっぱりごくごく普通で自然な事。何も、特別な事なんかじゃ……。


「私なんかより、青葉の方がもっとすごいよ?」

「え? 青葉って、一組の品川さんの事?」

「そう! 私は、青葉みたいに強くなりたいって思ってる」


 どんどん遠ざかっていく雫達のそんな会話は、本当なら距離に応じて聞こえにくくなるはずなのに、私の耳にはしっかりと届いた。雫のその言葉が信じられなくて、私は一瞬、呼吸を忘れてしまっていた。

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