第30話

「そこ、俺の席なんだけど?」


 眠そうな声と、こっちに近付いてくる足音が、私と彼以外は誰もいない教室の中でやたらと響いて聞こえた。他の誰かだったら何とでもごまかしようがあったのかもしれないけど、当の本人だとそういう訳にもいかない。そのせいか、私の頭の中は声をかけられた瞬間から「見られた」の四文字しか回らなかった。


「おおい、聞いてる?」


 時間にしたら、ほんの数秒といったところがやたらと長く感じられたっていうのに、すぐ背後にまで近付いてこられたら、やっぱりほんの一瞬の事なんだと思い知らされる。私は両目のまぶたをぎゅうっと閉じた。


「……うっわ。お前、何で人の机の中とっ散らかしてるんだよ」


 何も答えず、じっと立ち尽くしたままの私をいぶかしんだ彼が、私の肩口から覗き込むような仕草をした気配を感じる。じっと耳をすましていたら、案の定、彼の口から呆れたような声と息遣いの音が漏れた。


「おいおい、勘弁してくれよ」


 そんな言葉を発しながら、彼――菊池君が私の横をすり抜けていく。その事に我慢ができなくなってそうっと両目を開けてみたら、自分の席に座った菊池君が机の上に放り出されていた教科書やノートを元通りに片付けている様が見えた。


「この間、沢渡さわたりに注意されて、それなりにきれいにしてたところなんだからさ。変に崩されたら、また文句言われるじゃん」

「さ、沢渡さんに……?」

「ああ。あいつ、何とか週間が始まるたびに気合い入りすぎ」


 沢渡さんはこの二年一組の学級委員を務めていて、基本的に人当たりはいいんだけど、大が三つは付くくらい真面目な性格だ。そのせいか、先生達の次くらいに日がな一日爆睡を決め込んでいる菊池君を目の敵にしているし、彼の言う通り、学校で取り決められた週間運動が始まるたびに神経質と思えるほど徹底して守る。確か今週は、整理整頓強化週間だったっけ……。


 私がそんな事をぼんやりと思っている間に、菊池君はずいぶんと手慣れた様子で教科書やノートを片付けていき、やがて机の上には何にもなくなった。それにほうっと安堵したかのような息を吐き出したかと思ったら、菊池君はそのまま何事もなかったかのように机の上に突っ伏した。しかも、「じゃあな」なんて言葉をさらっと言い放った後で。


 さすがにそれには困惑して、私は思わず少し大きな声で「ちょ、ちょっと!」と言ってしまっていた。


「……んぁ?」

「ちょっと、ちょっと待って! まさか、それだけ!?」

「何が?」


 一度伏せていた顔を持ち上げた菊池君は、ひどく迷惑そうな表情を浮かべていた。半分閉じかけている目で私をにらみ、眉間にはぎゅうっと深いしわが刻まれている。これが大した事ない状況だったら怯んで次の句が言えなかったかもしれないけど、決してそうではない私の口は止まらなかった。

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