第26話

「……塾、変えてみる?」


 夕食の時間、作り立てのコロッケに手を付けるより数学の小テストの答案に目を向けていた母がため息混じりにそう言ったので、私は思わず「え?」と聞き返した。


「だって、そうじゃない。どうしてここだけ空欄なの?」


 そう言うと、母はコロッケの乗っている大皿の横にシワまみれの答案を置き、大きなレ点しかない最後の一問の解答欄を乱暴に指差した。


「そ、それは……ごめんなさい、解き方が分からなくなっちゃって」

「どうして?」

「どうしてって」

「昨日の復習、手を抜いたんじゃないの?」

「……」

「違うの? じゃあ、どうして? まさか他に何か原因でもあるの?」


 こういう時の母は、恐ろしいほどにさとい。全身全霊で隠したつもりになっても、針の穴ほどしか開いていないような隙間からこっちを窺い見て、的確に探し出そうとしてくる。しかも、ほぼ100%の確実で引き当ててしまうから、そんな母が本当に怖かったし気持ち悪かった。


 そして今日も、それは当たらずとも遠からずな感じで言い当てられた。


「あの男から、連絡が来たのね?」


 しまったと思った時にはもう遅く、私の体は条件反射のごとく、びくりと震えた。加えて怖さと気持ち悪さのせいで口を開かずにいれば、「まさにその通りです」と言ってるも同じなのに。


「どうなの?」


 母の声が低くなる。連絡が来たのは父ではなくあの人だったので、私は喉の奥で詰まっていた言葉をようやく絞り出して「違うよ?」と答えた。


「もう全然会ってないから、そんなに心配しないでよ」

「……」

「あっちはあっちでのんきに暮らしてるんだから、ほっとけばいいじゃない。私達は私達で暮らしていけば」


 これは、どっちかと言えば本音だった。それと同時に「うちで暮らさない?」なんて言ってきたあの人の顔が脳裏にちらついて、イラッとした。


 ほんの何年か前まで、うちだってのんきに暮らしてきたような、どこにでもある普通の家だったんだ。母は今みたいに怖くも気持ち悪くもなかったし、父だってきちんと毎日家に帰ってきてくれて、ささやかな団らんを楽しむ事ができた。それをあの人が、もみじちゃんが現れたせいで……。


 そんなドロドロとした気持ちを、聡い母はすぐに感じ取ってしまったのだろう。ふんっと短い息を吐き出すと、テーブルの上の答案をコロッケの大皿ごと薙ぎ払った。


 がしゃあんと、大皿がいくつもの陶器の破片になって砕けていく音と、せっかくのコロッケが床に散らばってダメになっていく姿。そして、その上に答案が落ちて、油が泥のように染みていく様が私の視覚と聴覚を一気に汚していく。これこそ、もう何度目になる光景だろう。私は「何やってるの」と言い返す気力さえ起きなくなっていた。

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