第20話

「青葉、やっぱりもう一度陸上やらない?」


 この前と似たような事を雫が言ってきたので、私は間髪入れずに「無理」と答えた。


「言ったでしょ。母親がうるさいから、もうやらないって決めたの」

「で、でも、高校入学した時に一度体験入部してくれたじゃん。その時から田之口先生、ずっと青葉の事を気にかけてるのに」


 ああ、あの時かと思い出す。スポーツ特待生枠で合格が決まっていた雫は、高校入学前から陸上部の練習に参加していて、入学式のすぐ後に催された部活動案内会でも先輩達と一緒になってたくさんの新一年生を勧誘していた。その中には私も含まれていて、私を見つけるや否や、強引に田之口先生の元まで連れ出され、「中学時代の私のライバルだった子なんです!」と鼻息荒く紹介されてしまった。


 そんな雫の言う事を真に受けた田之口先生に言われるがまま、雫と一緒に50メートル走を走らされた。母に必要以上に強いられていた受験勉強ですっかりなまった体が言う事を聞くはずがない、軽く流してあきらめてもらおうと思っていたのに、いざスタート位置から走り出したらそれこそ懐かしい感覚にうっかり酔いしれてしまった。


 映像の早回しみたいに、ぐんぐん近付いてくるゴール。自分の頬や肩にぶつかっては後ろの方に流れていく風の心地よさ。一歩一歩蹴り上げるたびに、確かに自分がここにいるんだと思える強い充足感……。ほんの数秒の間にこれだけのものを一気に味わえるのは陸上しかないんだって事を再認識できた頃には、私は雫とほぼ同じタイミングでゴールしていた。


 この時、タイムを計っていなかった事を田之口先生はひどく後悔していた。そして、雫と一緒にこれからもその才能を伸ばして言ってほしいと強く乞うてくれたけど、私はそれに応える事ができなかった。


「田之口先生には期待させてしまった分、悪いとは思ってるけどね」


 そう言ってから、私は一つ目のカツサンドを平らげる。それからシーザードレッシングのかかったミニサラダを食べ、コンソメスープをふた口ほど飲む。それでもまだ、雫は自分のお弁当を食べようとしなかった。


「どうしても……?」


 ものすごく寂しそうに、雫が言った。


「どうしてもダメなの?」

「そうだね」

 

 二つ目のカツサンドを手に取りながら、私は答える。頭の中で、わあわあと怒鳴り散らす母の顔が浮かんだ。きっと、そのせいだ。だから、こんな事を口走ってしまったんだと思う。


「お母さんが死んでくれないと、無理だよ」

「……え?」


 たっぷり間を置いてから、雫の口から困惑しきった音が漏れ出る。それを聞いて、私も思わず「しまった」と空いていた方の手で口元を押さえた。


「ち、違っ……今のは、その」

「うん、分かってる。落ち着いて、青葉」


 しつこく言ってごめんと、雫が何度も謝ってくる。だから、何で雫が謝るの?


 変に気遣わせてしまった事をこっちも謝ろうとした時、プレートの横に置いてあった私のスマホがLINEのメッセージの着信を知らせる。反射的にそちらに目を剥けば、液晶画面にはあの人の名前が記されていた。

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