第9話

「青葉。あなたはとても優秀な子なのよ」


 私を絡め取ったまま、母が言った。


「何せ、この私の子供だもの。あんなどうしようもない、ろくでなしの男の血なんか作用してるはずないわ」


 ああ、また始まった。やっぱり、こうなるんだ。一年の三学期の時もそうだった。声量は違っていても、母は必ず「どうしようもないろくでなしの男」という名目を持った父の悪口を言った。


「だから青葉、お母さんを失望させないでね?」


 私を捕まえていた両腕を少し離して、母は私の顔をじっと見つめた。その瞳に映っていたのは確かに私の姿だったけど、たぶん母の目にはそう見えていないと思う。きっと、私を通してあの人をにらみつけてるんだろう。


「お母さんが、何もかもサポートしてあげるから。今よりもっといい塾が見つかったらすぐに入れてあげるし、欲しい参考書があるならいくらでも買ってきてあげる。家庭教師も必要なら、すぐに言ってちょうだい。お母さん、全部やってあげる」

「うん、ありがとう。次こそは頑張るから」


 こうなっている母に反論するのは、悪手以外の何物でもない。ぬるりとした感触が全身を隙間なく埋め込んで、溺れてしまいそうになる時間が長引くだけだ。だから私は、従順になったふりをする。「ごめんなさい」と「次こそは頑張るから」を壊れたロボットみたいに何度も繰り返して、許しを請う。しばらくそうする事で、ようやく母は「普通」になってくれるから。


「……うん、分かったわ」


 じいっと私を捉えていた視線の形が変わったのを感じて、私はようやく沈ませていた顔を上げる事ができた。そこには、子供の頃は毎日のように見ていた母の優しげで穏やかな表情があった。


「じゃあ、晩ごはんまで復習と塾の予習をしてなさいね? 明日、塾あるんでしょ?」

「う、うん。講師の先生からもらってた課題を済ませちゃうね」

「いい子ね、青葉。頑張って」


 すっかり上機嫌に戻った母は、にこにこと笑ったまま、私の部屋から出て行った。一人残された私は、カーペットの上に散らかり放題になった答案の束と結果表にぼんやりとした視線を落とした。


 さっき、見るつもりは全くなかった菊池君の結果表の中身が、頭の中で何度も再生される。


 菊池英輔。全七教科総合点数、699点。学年総合成績、第一位。


「……さえ、いなければ」


 気が付けば、私は何度も何度もこんな言葉を繰り返しつぶやいていた。そんな事したって、ただ情けなくなるだけだって分かっているのに、どうしても妬む心を抑える事ができなかった。


「菊池君さえ、いなければ……。菊池君さえ、いなかったら……。どうして、どうして菊池君ばかり、いつもいつも……」


 あまりにもみっともない私の目から、ぽろりと涙が一粒こぼれた。

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