第5話
「さすが青葉だね。私なんて、全然ダメ。数学なんて赤点ギリギリだったもの」
「雫はスポーツ特待生なんだから、赤点二つまでなら補習は免除されるでしょ?」
「それはそうだけど、赤点取ったら取ったで親がうるさいんだもん。将来、陸上だけで食っていけるとは限らないんだから、やれる事はしっかりやっておけって」
雫のその言葉に、私は彼女の両親の顔を思い出す。小さな定食屋を営んでいる雫の両親は二人ともちょっと江戸っ子に近い性格をしているから、一人娘の雫には口やかましく聞こえる時もあるかもしれない。でも私は、そんな雫もまた心底うらやましかった。
「別にいいじゃん。うちの母親に比べたら、全然いいよ」
きっと今、私は俗に言う苦笑いって奴を浮かべてたんだろう。そう言った私の顔を見て、雫が大きく両目を見開く。そしてのんびりと後頭部に押し当てていた両手をだらりと垂らして、しまったとばかりに私から目を逸らした。
「ご、ごめんっ……」
「何で雫が謝るの?」
「だって」
「私なら大丈夫だよ?」
雫が罪悪感を抱くのは全くの見当違いなのだから、私は苦笑いを急いで明るいそれへとシフトチェンジする。中学の時よりもすらりと伸びた雫の両足はきれいな筋肉がしなやかに付いていて、立派なスプリンターのものとなっていた。
「今度の大会、頑張ってね。応援してるから」
これ以上、練習時間を奪ってしまうのも申し訳ないから、ここで会話を切り上げた私は雫の横をそっとすり抜ける。自転車置き場はもうすぐそこだ。さっさと自転車に乗って、家に帰ろう。そう思っていたら。
「青葉、陸上部に戻っておいでよ!」
私の背中越しに、大声でそう言ってくる雫の声が聞こえた。
「
雫は、小学生の頃から全然性格が変わってない。明らかな順位とスピードを競ってライバルを蹴落とさなくちゃいけない陸上選手のくせに、人一倍優しくて、他人に心を配れる子だ。中学を卒業した時だって、私がもう陸上をやらないと言ったら、雫の方が半泣きになって「どうして、何で? そんなの嫌だよ!」と最後まで引き止めてくれた。
でも、陸上はもうできない。あの、ゴールに向かって突っ切っていくスピード感も、頬に当たっていく独特な空気の流れも、グラウンドを駆けていく事で感じる両足の心地よい弾力も、もう二度と味わう事はできないんだ。
「無理だよ」
肩ごしに振り返る。また、半泣きになっている雫の顔が見えた。
「うちの母親、死ぬほどうるさいから」
それじゃあね、と言葉を締めくくって、私は再び自転車置き場に向かう。雫は、もう私に声をかけようとしなかった。
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