第60話

「何それ、確かにひどいと思う!」


 あたしは美琴の正面に回って、腰を下ろす。そして座ったままだった美琴の両手を上から重ねるようにして、握り込んだ。


「思いっきり捻挫したとか、骨が折れたとかそういうひどい怪我なら仕方ないと思うけどさ。こんな大した事ない擦り傷作ったくらいで交代だなんて!」

「智夏ぁ……」

「大丈夫だよ、美琴。明日、あの先生にもう一回抗議してさ。それから、本当の実力を見せつけてやろうよ。何とかなるって、美琴が本気になれば……」

「やめておいた方がいいんじゃないか?」


 タイムの一秒や二秒、余裕で縮むよ……て、言いたかったのに。また岡本君の言葉に遮られた。だから、あれだけ反省したのは何だったのって。


 さすがにそろそろ空気を読んでほしくて、あたしは岡本君をきっとにらみつける。だけど岡本君はあたしの方をこれっぽっちも見ていない。メガネ越しだけど、とても真剣な目が美琴をしっかりと捉えていた。


「真岡さん。本当はまだ足痛いだろ?」


 きっぱりと、確信を得ているような口ぶりで岡本君が言った。


「確かに安藤が言うみたいな大怪我じゃないだろうけど、擦り傷以外にも打ち付けたりしただろ? そのせいで、本気で走ったり飛んだりしたら痛みが出るんじゃないか?」

「そ、そんな事は……」

「僕も去年足を怪我したから、歩き方とか見てれば分かるよ。だから、なかなか痛みが引かなくてつらいって気持ちも、そのせいでタイムが出なくて苦しい気持ちもよく分かる。でも、あの先生の言う通りにした方がいいと僕は思う」


 これからも、陸上を続けたいんなら。最後にそう付け加えて、岡本君は美琴から視線を外した。


 何それ、何なのよそれ。あたしの不満は、あの顧問の先生から岡本君へと移った。


 美琴は頑張ろうとしてるのに。こんなに涙を流すくらい、悔しがってるのに。あんなにたくさん練習してる美琴なら、きっとまた元の調子を取りもどせるはずなのに。それを、そんな簡単に……!


「岡本君、簡単に結論出しすぎだよ」


 あたしは立ち上がって、岡本君をもう一度にらみつける。今度は岡本君と、ばっちり視線が合った。案の定、岡本君は「何が?」と言ってきた。


「僕は、真岡さんにとって、これが一番だと思える提案をしてるつもりだよ?」

「それが簡単だっていうの。美琴の頑張りを、そんな軽い一言でなかった事にされたくないの。あの顧問みたいにね!」

「安藤こそ、軽い気持ちで簡単に『何とかなる』なんて言わない方がいいよ。今の真岡さんには、それがたぶん一番きつい」

「えっ……」


 岡本君のその言葉に、あたしの体は石みたいに固まった。嘘、何それ……。


 あたしはおそるおそる、美琴を見た。美琴はやっと少し顔を上げてあたしを見てくれてたし、涙も止まってたけど、まだ歯を食いしばっているのか唇の所が細かく震えていた。


「み、美琴……?」

「ごめん、智夏。何とかなるなんて、言わないで……」


 つらそうに両目を伏せながら、美琴が言った。


「岡本君の言う通りだから。確かに膝も少し打ってる。体育くらいならごまかせたんだけど、本気で動くとなると……」

「……」

「でも、どうしても納得できなくて。先生の言葉、全部おだててただけだったんだって思ったら、悔しくて……!」


 それ以上はもういっぱいいっぱいになってしまったみたいで、美琴は再び泣きだしてしまった。あたしも、もうこれ以上何も言う言葉が見つからず、美琴が泣いているのを呆然と見ているしかなくて。


 そんな中、岡本君はおもむろにポケットからスマホを取り出すと、急に何かをチェックし始めた。こんな時に何してんのと思ったけど、少しして岡本君はスマホからあたし達の方へと視線を戻して、「二人とも、ちょっとうちに寄ってってよ」と言い出した。

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