第59話
「お待たせ。美琴、これで……」
できるだけ明るい声を出すようにして、あたしは濡らしてきたハンカチを差し出す。その時、まだうつむき加減だった美琴の両手が、自分の右膝を隠すように包み込んでいるのが見えた。
そういえば、とあたしは今日一日の美琴の様子を思い出す。まだ擦り傷のかさぶたは残っていたけど、少なくとも今日の美琴はごく自然に動けているように見えた。この間みたいに右足を引きずって歩いてなんかいなかったし、体育の時間だってバレーのアタックを何本も決めてくれた。だから、大した怪我でなくてよかったって思ってたのに。
「ありがと……」
左手だけを伸ばしてハンカチを受け取ってくれた美琴は、そのままそれを自分の顔に押し付ける。そのせいで美琴の顔は余計に見えなくなったけど、かすかな風に煽られてふわりとなびいたハンカチの裾から、ぐっと食いしばっている彼女の口元が見えたような気がした。
「美琴……」
何かのテレビドラマの主人公みたいに「何かあったの?」とか「何でも話してみてよ」とか、そんな力強い言葉がすらすらと口から出てくればいいのに。親友の名前を呼ぶだけ、ただ横に突っ立っているだけなんて本当にサイテーだ。
あたしはのろのろと美琴の隣に座る。その気配に気付いたのか、今度は美琴の濡れた片目がハンカチの裾から見えた。
「智夏、私……」
「それで、何があったの?」
くぐもった声があたしの名前を呼んでくれたと思ったのに、それに被さるようにして岡本君がいきなりド直球に尋ねてくる。見ると、岡本君は東屋の柱の一本に背中を預けていて、あたし達から少し離れた位置に立っていた。
「何かあったんじゃないの?」
「ちょっ、岡本君……!」
ずいぶん久しぶりの歯に衣着せぬ言い方に、あたしはかなり焦った。こういう時、そんなオブラートに包みもしない言葉を浴びせられたら女の子は余計に怯えるっていうか、言いたい事も逆に言えなくなるっていうのに。やっぱり、ちょっとやそっとで性格は変わんないものなのかなと思った時だった。
「……タイムが伸びなくなって」
あまりにも小さくてか細かった、美琴の声。ほんのちょっとでも物音を立てていたら、聞き逃がしていたかもしれなかった。「えっ……」と岡本君に向けてた顔を戻してみたら、美琴は顔に押し付けていたあたしのハンカチをいつの間にか手のひらの中に収めて握りしめていた。
「この間、ハードルで転んだって言ったでしょ? そのせいだと思うけど、二日前くらいから全然タイムが伸びなくなっちゃって。次の大会でハードルの代表になってたのに、今日になって先生が別の子と交代させるって、急に……!」
ひどい、ひどすぎるよ……と、美琴がハンカチを握る手の力を強くする。あたしは、胸のあたりがキュウッと痛くなった。
あの顧問の先生は、たまに廊下ですれ違うけど、そのたびに声をかけてきた。とはいっても、大抵はあたしの横にいた美琴にだったけど。
『よう、真岡。調子はどうだ?』
『放課後、タイムを計るからな。気合い入れておけよ』
『なんてったって、お前は陸上部期待のエースだからな』
いつもそうやって、大げさなくらいに美琴を気遣い、褒めちぎり、持ち上げていたくせに。ちょっと転んで調子が悪いだけで、簡単に手のひらを返すなんて。あたしもひどいと思った。
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