第56話

「……ありがとう、岡本君」


 それからほんの数十分くらいだったけど、あたしは岡本君から数学のテスト範囲についていろいろ教えてもらった。


 正直、田淵なんかよりずっと分かりやすい。あくまで自己流だからと岡本君は言ってたけど、田淵の回りくどくて小難しい説明や解説がどこかに吹っ飛んでしまったくらい、ずっと要点がしっかりと抑えられてる。人に教えるの、ものすごくうまいなと思った。


「役に立てて良かったよ。そんなに責任持てないけど、頑張って」

「責任持てないって……教えてもらったところ、ちゃんと全部分かったから安心して。最低でも、平均点くらいは取るから」

「そっか」


 そう短く答えて、岡本君は照れくさそうに頬を掻いていた。


 仲直りができてから、ずいぶん岡本君のいろんな表情が見られるようになったと思う。さっきまではちょっと大人っぽい感じに見えてたのに、今はあたしより年下なんじゃないかって思えるくらい、照れた顔が幼く見える。最初の嫌味ばかり言ってきた仏頂面より、ずっとずっといいって思えた。


 閉館時間になって、図書室にいた生徒達が全員退室したのを確認した後、簡単な掃除を済ませて鍵をかけた。その鍵も司書室に返して、あたし達も帰ろうと昇降口に向かっている。テスト期間中は全ての部活動は休みになるから、放課後の廊下も体育館もグラウンドもしんと静まり返っていて、何だか寂しい感じがした。


「じゃあ、安藤。ここで」


 昇降口の下駄箱でスニーカーに履き替えた岡本君が、肩越しに振り返りながらそう言ってくる。あたしも下駄箱から自分のローファーを取り出しながら、「うん、それじゃね」と言いかけた時だった。


「……何で!? 何でなんですか! 大丈夫だって言ってるのに、今さらそんなのあんまりです!!」


 突然、昇降口のあたりいっぱいに広がった大きな聞き覚えのありすぎる声に、あたしは持っていたローファーを思わず落としてしまった。


 声は、あたし達が来たのとは反対方向から聞こえてきたようだった。思わず体をそっちに向けて覗いてみれば、昇降口と体育館を繋ぐ渡り廊下へのドアが見えていて、開けっぱなしだった向こう側では、美琴が陸上部の顧問の先生に食ってかかっている姿があった。


 信じられなかった。いつも明るくて誰にでも分け隔てなく接する性格の美琴が、あんなふうに取り乱して大声を張り上げてるところなんて見るのは初めてで。少し遠目だったからはっきり見えなかったけど、あれは絶対に涙目になってる。そしてとても悔しそうに顔を歪ませながら、百八十センチはあるに違いない顧問の先生をにらみつけていた。

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