第55話
「えっ……!?」
近い、近すぎる。今にもお互いの体が触れ合ってしまいそうなほど、近い。それほどがっちりしていない体格も、真っ白で細い腕も、メガネ越しにあたしの様子を窺おうとしている両目も、もう何もかもが近すぎる。これで驚くなって言う方が無理でしょうよ。
大声を出す事は何とか耐えられたけれど、あたしは大げさなくらいに椅子ごとのけ反る。そのせいで、椅子の脚がカウンターの床を引っかいてギュリギュリッと不快な音を図書室中に響かせた。
「わっ、安藤。しいっ……」
音に反応して、図書室中の机を占拠している生徒達の視線がカウンターへと注がれる。それに慌てた岡本君がすらっとした人差し指を自分の口元に当てた。岡本君って指も長いんだなあって、ぼんやり思ってしまった。
「ご、ごめん。ちょっとびっくりしちゃって」
「……いや、僕の方こそ。急に声をかけたから」
そう言いながら、岡本君は両耳にはめていたピンク色の耳栓を外していく。それを見て、「あ、よかった……」と小さく呟いてしまった。
「耳栓してたんだね。でも、大丈夫だった?」
「うん。ちょっと集中して読みたい本があっただけで、大きな音でも一瞬ならまだ平気なんだ。それより」
岡本君の視線が、再びあたしの数学の教科書に移る。クラスは別でも、テストの範囲は一緒だから、すぐに察しが付いたのだろう。ほんの数秒間見た後で、岡本君は「どこが分かんないの?」と聞いてきた。
「一度やったところだし、僕でよかったら少しは教えてあげられるけど」
「一度やったところって……、あっ」
そうだ、岡本君は留年してるんだった。しかも成績不良じゃなくって、怪我で留年してたんだから……。
「ここ、だけど……」
そう言いながら、あたしは完全に詰まっていた公式の問題の所をページの上からそっと指差す。すると岡本君はあたしのシャーペンとノートを手早くたぐり寄せると、まるで機械みたいにすらすらと呪文を書き連ねていった。
「え……」
「これでどう? 僕なりに分かりやすく書いてみたつもりだけど」
数行分のちょっと細かい呪文を書き終えた後で、岡本君はもう一度あたしの顔をメガネ越しに覗き込む。明るい茶色の瞳が、メガネのレンズの為に大きく見えた。
「分かりやすいって……」
そんなに変わるものかなと思いながら、あたしはノートを見る。すると、それまで呪文だとしか思えなかった英数字や公式の羅列があたしの頭の中でどんどん意味を成していき、あれだけ詰まっていた答えがすんなりと出てきてしまった。
「これって、答えは2α-5……?」
「正解」
そう言って、岡本君はにこりと笑った。
「難しく感じるだろうけど、コツさえつかんだら解けるから。あと、ここだけの話、田淵先生って結構単純なところあってさ。テスト問題の予想とかできたりするんだけど」
よかったら、参考までに聞く? 岡本君の心の声がそう続いたのを確信して、あたしはこくこくと頷いた。
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