第33話

……どおりで、どこかで見た事あるような名前だと思った。


 学校から軽トラックで10分くらい走って着いた所は、あたしの家からもほど近い商店街で。その商店街の入り口付近にある『岡本豆腐店』という文字の暖簾がかかった小ぢんまりとした店は、お母さんと一緒に何度か来た事があった。


『只今出かけております すぐ帰ってきます』


 暖簾の真ん中には、そう書かれた太い木札がぶらりと吊りかけられていて、店の中には誰もいない事を示している。なのに、店先に並んだ冷蔵棚の中の豆腐や油揚げ、こんにゃくなんかが無防備に置きっぱなしになってるものだから、不用心にも程があるでしょと言いたくなった口をあたしはまた引き結ぶ事で何とか耐えた。


「……ごめん、お父さん。仕事中だったのに」


 あたしの次に軽トラックを降りた岡本君は、冷蔵棚を見たとたん、らしくないほどにしゅんとしながらそう言う。そんな息子を励ましたいのか、おじさんはからからと笑いながらその頭を少し荒い手つきで撫で回した。


「ああ、誠也君はいい子だなあ。あいつにも見習わせてやりたいもんだ」

「や、やめてって……」


 身じろぐ岡本君の視線が、あたしのものとたまたまぶつかる。それが気恥ずかしかったのか分からないけど、岡本君はすいっと顔をうつむかせて黙りこんでしまった。


 ……何だ。そんなふうにおとなしくできるんじゃん、親の前じゃ。図書室の中だと、あんなに自分勝手な価値観押し付けてくるくせに。


 おいしい豆腐をごちそうしてくれるって言われたけど、本当にそんな事をしてもらうつもりはないし、商店街の入り口まで連れてきてもらえたのは逆にラッキーだった。ここからなら、後はほんの十メートルほど歩けば本屋に辿り着ける。今のうちにと、あたしは静かに足を動かした……つもりだった。


「安藤さん。すぐに準備するから、誠也君と中で待ってて」


 商店街の奥に体を向けたあたしに目ざとく気付いたおじさんが、また背中越しにそう声をかけてくる。どうしてこういうのを無視できないのか、あたしは自分の度胸のなさを恨んだ。






「……何か飲む?」


 店の中を通り過ぎた奥へと案内されると、畳ばかりがよく目立つ平屋の風景が目の前に広がった。


 親子二人だけで静かに暮らしているっていうのがよく分かる。ふすまがいくつか見えたから、それなりに部屋数はあるんだろうけど、その中でも居間として使っているらしい一番大きな部屋の真ん中にでんと置かれているちゃぶ台。こんなの今時朝ドラでしか見かけないし、視界の端々に映る冷蔵庫やテレビも素人目にだって分かるくらい型落ちしている物ばかりだ。


 そんな冷蔵庫をガチャリと重々しそうに開き、中を覗き込みながらそう言ってくる岡本君。「お気になさらず」って慣れない言葉を使ってやんわり断ったっていうのに、結局氷の入った麦茶なんて持ってきてくれた。


「はい」

「あ、ありがと」

「今日は、その、何かいろいろと……」


 少し水滴が貼り付いたコップをちゃぶ台の上に乗せてきた岡本君が、そんな事を言ってくる。あたしが少し首をかしげてみせると、岡本君は調子のいい鼻歌が聞こえてくる店の方に顔を向けてから言った。

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