第12話

『神薙ハデス』という名は、その男が人間の世界で生きていく上で必要な便宜上のものでしかない。では、本名は何だと問われれば、彼には始めからそんなものは存在しないので答えようがなかった。


 もう、どれほど遠い過去の話になるだろうか。自我に目覚め、はっと気が付いたその瞬間、彼は闇の世界でただ一人の真祖ヴァンパイアという生を受けていた。そして、頭で考えるよりもずっと早く、己の役目、または使命と呼べるものを全身で感じ取っていた。


『仲間を増やして、闇の世界にさらなる充実を――』


 真祖――または、「始まりのヴァンパイア」と称された彼の周りには、同じような姿を持つ仲間が一人もいなかった。それは何故だろうと思うと同時に、彼は猛烈な喉の渇きを感じる。そして、己の口元から覗く牙はその渇きを潤す為。また、仲間を増やす為にあるのだとすぐに気付いた。


 それが分かった途端、彼には躊躇が全くなかった。夜ごと、闇の世界から人間の世界に躍り出て、手当たり次第に人間を襲った。老若男女の区別など全く考えず、その柔らかな喉に牙を突き立て、熱い血を啜った。


 血を啜られた人間は皆、その場ですぐ彼の仲間になった。彼と同じように牙が生え、瞳は金色に変わり、彼と同じ能力を持つヴァンパイアと化した。


 彼は、その事がとても嬉しかった。自分が「食事」をするだけで、仲間がどんどん増える。一人ぼっちで生まれてきたけれども、これからはこの仲間達と一緒に闇の世界で暮らしていけるのだと、心の底から嬉しかったのだ。


 だが、その仲間達と彼とでは、決定的に違う部分があった。


 彼が己の使命の通りに動き始めて、百年ほどが過ぎたある晩の事だった。仲間の一人と共にその日の「食事」に向かおうとした時、たくさんの人間達に瞬く間に取り囲まれた。


 人間達は分厚い聖書や聖水、木の杭などを持ち合わせていて、まるで獣のように二人を取り押さえた。そして、怒りの形相で彼らに聖水をかけ、その胸に木の杭を打ち込んだのだ。


 彼は、ただ「熱くて、痛いなぁ」と思っただけだった。聖水が身体中を滴る感触も心臓に杭が打ち込まれた感覚もあるが、ただそれだけ。抑え付けている人間達を振りほどき、そのまま追い払った。


「もう、何なんだよ全く…君、大丈夫かい?」


 地べたに抑え込まれてしまって付いた埃を払いながら、彼はすぐ側で横たわっている仲間に声をかける。仲間もすぐに立ち上がるだろうと思い、その口調は軽かった。


 だが、仲間はなかなか起き上がらない。不思議に思って顔を覗き込んでみた彼は、ひどく驚いた。仲間は、絶命していた。


 それからも、似たような事が何度もあった。ある時は大きな十字架に拘束され、そのまま太陽の光の下に晒された。またある時は、心臓をくり抜かれて聖なる火に身体をくべられた事もあった。


 だが、それで死ぬのはいつも仲間だけで、彼は人間から何をされても死ぬ事はなかった。ダメージは確かに受けるが、少し時間を置けば何事もなかったかのように回復する。


 彼は悟った。自分にあって、仲間達にないもの。


 それは、不死性。真祖ヴァンパイアであるがゆえに、何があっても死なないという事…。


 それは逆を言えば、不死性を持たない仲間達は、油断すれば人間に逆襲され、殺されてしまうという事だった。

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