第108話
それでもあいつは、何とか演奏を立て直そうとしたらしい。巣立っていく六年生達にとって、小学校最後の催しである卒業式は、かけがえのない思い出になるはず。それを自分の失敗で台無しにしたくはないと思ってくれていたという。
でも、そんなあいつの優しい心遣いを台無しにしたクソガキが――俺がいたんだ。
「ヘタクソ」
あの時の俺の言葉を繰り返してから、あいつは俺に顔を向けて言った。
「ありがとう」
「え…?」
「あの時ほど、人様に感謝した事はないんだから。多分これから先も、きっとないよ」
はっきりとした口調でそう言い切ると、あいつは何故かこれでもかとばかりに勢いよく笑いだした。
…いったい、今の話のどこがそんなにおかしいんだ。
俺があいつの立場だったら、きっとこんなふうに笑い声を立てられない。自分より二つ年下で、しかも何の事情も知らないクソガキに生意気な事を言われたんだぞ。普通は傷付くだろ、冷静なんかじゃいられないだろ。
もし、あの時の事がきっかけになってしまったんなら、あいつのピアノに対する努力も情熱も奪ってしまったのは…!
「何で笑ってんだよ」
「あはははっ…えっ、何?」
俺がそう言うまで、あいつはずっと笑っていた。自分の笑い声で俺の問いに気が付くのが遅くなり、少しの間を開いたくらいだった。
「何?俊一君…」
「何、じゃねえだろ。何で俺を…!」
「だって、やっと未練がましい自分から卒業できたんだし」
「卒業?何言ってんだよ。お前、あの時はまだ…」
そうだ、あの時はまだ大丈夫だったんだろ。
まだピアノを弾く力は残っていたはずだ。すぐにどうにかなる訳じゃない、少なくともあと数年くらいはまだピアノをあきらめる必要はなかったはずだ。
だが、途中まで言いかけていた俺の言葉を、あいつの視線が止めた。いや、実際にはあいつの視線っぽい感じにだ。
「もう、いいの。本当にありがと、俊一君」
少しして、あいつが言った。
「おかげで、こうやって歌に集中する事ができる」
「…いや、別にそれは俺の…」
「あ・り・が・と!」
まるで礼を言う事に意地を張っているかのように、あいつが一音ずつ言葉を区切って言ってきた。
そして、いつの間にか差し出されていたあいつの細くて華奢な手を、俺は反射的に握っていた。
もうピアノを弾いていたとは思えないくらいに、細い指がそこにある。ちょっとでも力を入れたら、軽々とへし折れるんじゃないかと思えるほどに、色白くて細い。
それなのに、俺にはあいつがすごく強いのっぺらぼうに見えてたまらなかった。
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