第107話
あいつが言うには、その日は今から半年以上も前。俺や圭太の卒業式の日の事だった。
卒業式の一ヵ月ほど前、あいつは校長先生や音楽担当の先生にいくつかの事を頼まれた。ある小学校の卒業式に、中学校の代表として列席してほしい。そして、卒業証書授与の際、壇上に上がってピアノの演奏をしてほしいと。
あいつは、かなり戸惑ったそうだ。この頃、あいつの症状は発症当時より進行していて、時折手足の感覚がマヒに近いほど鈍る事が多くなっていた。繊細かつ大胆な動きで指を鍵盤の上に滑らせる事はほぼ不可能で、簡単な曲を弾く事で精いっぱいだったという。
それでもあいつは、家族以外の誰にもその事は相談せず、校長達の頼みも快く「はい」なんて答えたそうだ。
「まだ、行けると思ったのよ」
何で了承なんかしたんだという俺の質問に、あいつは少し罰が悪そうな声色でそう返した。
そう、まだ行ける。まだこのレベルの曲と演奏時間ならまだ行ける。あいつは何度も自分にそう言い聞かせた。
大丈夫。天才ピアノ少女と呼ばれた私じゃない、まだこのくらいの演奏はできる。むしろいい練習の機会をもらったと思って、最後まで頑張ろう――と。
そして、一週間か十日ばかりの練習をこなした上で、あいつは俺達の卒業式に来賓として招かれ、壇上でピアノの前に座った。
最初は、とても順調に演奏をこなせていたので、ほっとしたそうだ。さんざん悩んだり、不安に思っていたりしていたこの十日間ほどがバカバカしく思えるほど、自分でもいい演奏ができていたとあいつは言った。
だけど、その時は起こった。それは、俺が卒業証書を受け取る番になった時だった。
卒業証書授与も半分ほどが過ぎて、ほんの少しだけ気が緩んだせいかもしれないと前置きしてから、あいつは俺の名前が呼ばれた瞬間の事を話した。
「突然、両手の手首から先の感覚がマヒしちゃったのよ。石みたいに重くなって、鍵盤を叩けなくなっちゃったの。おまけに足もしびれてペダルが踏めなくなった…」
そのせいで演奏が止まったばかりかテンポがかなり乱れ、重くなった指は全く関係ない鍵盤のキーを叩いて音を外した。
「すごく焦ったわ。思わず大声で『あっ』なんて言っちゃったもの」
あいつがそう言うのを聞いて、俺はぼんやりと、何となく思い出せたような気がした。確かに、俺の番になってピアノが止まったんだよな…。
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