第103話

小学六年生になったばかりの、ある春先の日の事だったそうだ。学校が終わったあいつは、そのままいつも通っているピアノ教室に向かおうと通学路を一人歩いていた。


 その通学路は、どこの町にでもよく見かける何の変哲もない道路だった。見通しが悪い訳でもない、危険な建築物がある訳でもない、車の往来が多すぎるという事もない、いたって普通の道。


 そんな普通の道を、ただ普通に歩いていただけだった。石とかにつまづいたり、誰かに押された訳でもない。それなのに、何の前触れもなくあいつの両足が急にもつれ、受け身も取れずにうつぶせに倒れ込んでしまったそうだ。


 人間には条件反射というものが備わっていて、よほどの事がない限りとっさの動きが意識しなくても出てくるという。普通、うつぶせに倒れそうになったら、とっさに両腕を突き出して頭や顔を守ろうとするものなのに、その時のあいつはそれができなかった。


「派手に転んじゃって、思いっきり鼻血出しちゃったわよ。でも、両腕を怪我するよりはいいかなって。あの頃はピアノが何よりも最優先だったから」


 そう言って、ベンチに座ったままのあいつは両腕をゆっくりと宙に浮かせて、自分の顔の前まで持ち上げる。はた目には分からないかもしれないが、よくよく見てみれば、その指先はひどく細かく震えていた。


「でも、今思えば違ってた。無意識に両腕を庇ってたんじゃなくて、両腕を使う事ができなかったんだなって、今なら分かるの」


 その無様なほどの転び方が一回きりだったなら、あいつは何も気にせずに日々を過ごしていたんだろうが、決してそうはならなかった。この時を境に、あいつは何かと転びやすくなり、だんだんと両足に力が入りにくくなっていった。


 その異変のスピードは速く、梅雨に差しかかる頃にはピアノのペダルを踏む力も弱まった。同時に指先にかかる繊細な感触にも違和感を覚えるようになり、思うような演奏ができなくなっていった。


 それでもあいつは、自分の異変を誰かに相談する事ができなかった。単に疲れているだけかもしれないし、気にしすぎるから余計に調子が悪くなっているだけ。それを口に出したら、その分恥ずかしい思いをするからとずっとガマンしていて。


 しかし、そんなあいつの異変をピアノの講師や母親達が気付かない訳がなく。どうしたのと何度も問い詰められて、やっとあいつが自分の身体の異変を話す事ができたのは夏も半分過ぎ去った頃の事だった。

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